『語られなかった皇族たちの真実 ~若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」~』
竹田恒泰(たけだ つねやす 昭和50年~)
株式会社 小学館 2006年1月発行・より
高松宮の情報収集係を担った細川護貞は自分の任務の重さを認識し、高松宮に正確な情報を届けるために日記を書き始めた。
(略)
『細川日記』 には幾つかの衝撃的なエピソードが綴られているが、その最たるものは、高松宮と細川が東条首相を暗殺することについて真剣に検討したことである。
『細川日記』 の昭和19年7月15日の記事によると細川は、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が蘇我入鹿(そがのいるか)を誅(ちゅう)した話を持ち出し、高松宮に 「中大兄皇子と御成り遊ばされるゝ御決心が肝要と存じます」 と迫る。
そして 「手を下します者は海軍にも居りますませうが、此の私でも御命令あればいつ何時でも馳せ参じます」(「やれと仰るなら私が東条を刺します」という意味)と、東条暗殺を進言した。
東条暗殺の件は、高松宮が 「それはやめよう」 と言ったことで実行されることはなかった。
これが 『細川日記』 から読み取れることであるが、後に細川がそのときの様子を詳しく語った記録 『細川護貞座談』 によると、東条暗殺計画は実は高松宮の発案だったことが分かる。
司馬遼太郎(しばりょうたろう)は、万一日記が人目に触れた場合のことを考え、細川が日記に明確なことを書かなかったのではないかと分析している。
重要な部分なので、長文であるが 『細川護貞座談』 の該当個所を引用することにする。
「高松宮様の所に夜うかがった時です。非常に沈痛な顔をして出て来られてですね。もうこうなった以上は東条を殺す以外にないな、
だれか殺すやつはいないだろうか、という話をされたんですよ。
それで私はね、そういうことをおっしゃってはいかんと言った。
そしたらおっしゃてはいかんというけれども、君だってそう思っているだろうと言われるんで、
それは私もそう思ってます。
思ってますが殿下がそういうことをおっしゃってはいかんと。
なぜかというと、明智光秀が重臣たちを集めて、敵は本能寺にありと話した時に、十四、五人いた。
その時みんな黙っていた。その中で明智左馬助という若い武将が、
いまおっしゃったことはきわめて大変なことだ、これが少しでももれれば向こうを殺す前にこちらが殺される、信長の性質としては必ずそうなる、
だから事がなるならぬはここで問題にすることじゃない、一度口に出した以上は殺される前に、こちらから本能寺に行って信長を殺そう、
そう言ったというのがありますと、そう申しあげた。
いま殿下と私二人だけだけれども、壁に耳ありということもあるし、
殿下が殺さなきゃいかんと口に出された以上は殿下の命が危ない。
だから今からすぐ実行しましょう。
二人いて殺せないことはない。殿下に手を下せというのはもったいないから、私だってここに黙って入ってくる東条を殺せないことはない。
殿下から刀でも拝借したらやれる、と申し上げたのです。
そしたら殿下は黙ってしまわれてね、二人で黙ってにらみ合っておったわけですよ。それが何分ぐらいだったか、いまは覚えていませんがね。
そのうち静かに、それはやめようと言われた。
言い出しておいてやめようというのは申し訳がないが、
陛下の信任しておられる総理大臣をぼくが殺すわけにはいかん、
と殿下がおっしゃったんでね、私はそのご心配ならいらんと思う、
と申し上げた。
なぜかと言えば、皇極天皇の御代に蘇我入鹿を中大兄皇子が殺されたじゃありませんか、それとおんなじで、殿下が中大兄皇子、後の天智天皇のお立場になれば、それは国のためなんだからいいじゃありませんか、
と申し上げたんです。
そしたら、まあ理屈はそうだけれども、今はできない、と言われて結局やめたんです」
高松宮が東条に電話をして宮廷に呼び出し、現れた東条を細川が殺すという計画だった。
細川はこのときほど緊張し、興奮したことはなく、いちばん心に残る思い出だと話した。
夜10時頃に高松宮邸を後にした細川は、品川駅まで来たところで足がぶるぶる震え出したという。
細川は東条を刺殺した上で自らも果てるつもりだった。
東条暗殺を中止して 「これで命が助かったんだな」 と思ったと語った。
2017年7月6日に 「東条英機に感謝するインド」 と題して渡部昇一の文章を紹介しました。コチラです。↓
昨年12月3日 和光市内(埼玉)にて撮影