東京裁判ののち、ウェブ裁判長もマッカーサーも東京裁判を後悔しているといわれる。
それは、パル判事の判断が正しかったことの何よりの証といえよう。
そういう意味で、安部首相は、戦後日本が蒙(こうむ)った国難を思い、
インドを訪問した。
インドとの絆(きずな)を強くすることで、中国とのバランスを取ろうとするのが目的だったようだが、その訪問に際して、独立戦争の立役者であるチャンドラ・ボース(一八九七~一九四五)と東京裁判のパル判事の遺族を訪ねた。
これは歴史的に大きな意味をもつ。
日本の戦後を支配した東京裁判史観との決別宣言だからである。
チャンドラ・ボースは、インド独立軍を率いて、日本軍のインパール作戦に参加した。
彼は、敗戦の少し後に亡くなって、杉並区のお寺に葬られたが、戦後部下の兵隊たちがイギリスの裁判にかけられた。
彼らが反逆罪で処刑されようとしたとき、彼らは独立を目指しての戦いだったと主張し、インドの民衆もそれに同調した。
イギリスは彼らの主張を抑圧することができないとみて、インド独立を認めようと決心した。
しかし武力で独立しようとしたチャンドラ・ボースの戦いを無視しようとした。
そして、無抵抗主義で独立運動をしていたガンジー系のネルーらに独立のバトンを渡したのである。
そして戦後、イギリスはインドに独立戦争はなかったのように喧伝(けんでん)した。
しかし、じつはチャンドラ・ボースはインド独立の父として認められている。
その独立を後押しした日本軍の指導者・東條英機(一八八四~一九四六)は、インドにとって独立の恩人であり、今でも 「東條大将の会」 があるという。
事実、日本インド親善協会がインドの要人を日本に招いた時、彼は歓迎会のスピーチを 「インドの今日あるは東條大将のお陰であります」 というショッキングな言葉で始めたのであった。
安部首相の祖父は、その東條内閣の商工大臣だったという深い縁があった。
『決定版 日本人論 ~日本人だけがもつ「強み」とはなにか?~』
渡部昇一(わたなべしょういち 昭和5年~平成29年)
株式会社扶桑社 2016年7月発行・より
4月15日 朝霞市内(埼玉)にて撮影