「大人の読書 一生に一度は読みたいとっておきの本」
谷沢永一(たにざわ えいいち)・渡部昇一(わたなべ しょういち)
PHP研究所 2009年3月発行・より
<渡部> 「受ける、受けない」 という話で言うと、
質の話は別だけれど、本の売れ行きは書く側が力を入れたからいいというものではないですね。
軽く転ばしたのが売れることは少なくない。
養老さんの 『バカの壁』 にしても、『唯脳論』 で力を込めて書いたことを楽にしゃべっているわけだし、三島由紀夫が他の仕事を断ってまで力を入れた 『鏡子の家』 はあまり当たらず、サラサラと書いたような 『美徳のよろめき』 は売れた。
漱石で一番成功した 『坊ちゃん』 『草枕』 あたりは、
三日か一週間で書いたものでしょう。
書く側が一生懸命になると、
知らないうちに読む人にとって難しくなるのかもしれません。
まして、今は明窓浄机(めいそうじょうき)のもとで研究するという時代でもないですからね。
<谷沢> 三島が力を入れてかつ文壇的に大成功したのは
『金閣寺』 だけです。 私は評価しませんけれど。
漱石の小説では 『坊ちゃん』 が書くのに一番早く、走るように書いた。
『ホトトギス』 の何周年かの記念号に載せるということで、
出す日が決まっていた。
印刷所は急(せ)かされて何枚かずつに分けて文選工と植字工へ
バラバラに配分したようです。
作家自身の自信作といいますか、これがいいと思ったものと、
実際に売れた本は、ずれる場合のほうが圧倒的に多いのです。
西鶴ものにしても、それほどは売れなかった。
それを見てトーンダウンし、やさしく書いた八文字屋本は天下を風靡した。
以後の江戸文学は、八文字屋本に足を置き、西鶴の伝統を継いだのではないかと考えられます。
<渡部> 直接関係あるかどうかはわからないけれども、G・K・チェスタトンがこういうことを言ってました。
チョーサーが努力して書いたものは、今はほとんど読まれない。
ところが、軽く書いている感じの 『カンタベリー物語』 は読まれている。
それに対するチェスタトンの解釈は、『カンタベリー物語』 を書いたとき、
チョーサーは実力が漲(みなぎ)っていた。 だから、軽く書けた。
若い頃の、念の入った著作はまだ力が足りなかった 。
そういえば体操選手でも実力のある人は軽々と技を演じますが、
われわれは体力がないから軽々とは何もできない。
これは一つの見方ですが、意識しないで軽く書いたときは、
意外に内なる充実があるかもしれない。
逆に、力を入れて書いたというのは、力がなくなってきたから力を入れたのかもしれない。
あるいは、本人は力を入れたと思っていても、実は自己満足が大きくて、その自己満足が読者に微妙な形で伝わるのかもしれない。
力のある人が無造作に書いたからいいのかどうか、力のある人が力を入れてしまうと読書のほうがついていけないのかどうか・・・。
その辺は微妙な感覚だから、わかりません。
<谷沢> 絶対当たると思って出した本が売れない。
これは過去百年、各出版社に共通した嘆きです。
私の場合、法則はかなり一貫していて、パッと作った本は版を重ねる。
これこそと思って全力を振るった本は増刷がない。
余計なエネルギーの発散が、エネルギッシュすぎる嫌味に傾く人物のような印象を与えるのではないかとも思います。
本というのは、一方で気楽に読みたいという気分がありますからね。
昨年12月14日 光が丘公園(東京・練馬)にて撮影