「戦国の群像」
小和田哲男(おわだ てつお 1944~)
株式会社学習研究社 2009年6月発行・より
忍者のルーツはいろいろあったと思われるが、一つは修験(しゅげん)山伏である。
単に山伏といわれることもあるし、山伏の修験者といわれることもある。
昔からわが国には山岳宗教ともいうべき形の霊山に対する信仰がある。
羽黒山・湯殿山・月山のいわゆる出羽三山をはじめ、富士山や白山、
さらには葛城山・大峰山など、山岳宗教が盛んだった。
そうした霊山には修験山伏がいて、有名な千日回峰の例からも
うかがわれるように、峻険な山岳できびしい修行をくり返していることで知られている。
ふつうの人では考えられないスピードと身のこなしは、
このきびしい修行によって身につけたものであろう。
しかも、修験山伏は出家の姿で、俗世間と縁を切った”無縁”の存在でもあり、敵味方関係なく自由に往来ができる身でもあった。
そうした修験山伏の特性は忍者にぴったりだったのである。
実際、駿河の戦国大名今川義元は、富士山の村山浅間(せんげん)の
修験山伏を保護し、情報蒐集活動をやらせていた。
なお、よく知られるように、修験山伏の主な仕事は、
呪術などを使った加持祈祷(かじきとう)と代参であった。
本人に代わって霊山に登り、お礼を受けとり、それを届けたりしていた。
このお礼配りの関係で注目されるのが甲賀(こうか)忍者である。
甲賀忍者は伊賀忍者と並んで有名であるが、甲賀忍者の場合、甲賀の山伏の家は、お礼配りともう一つ、売薬が主な仕事だったという。
現在、滋賀県甲賀市の竜法師(りゅうぼうし)に忍者屋敷があるが、
そのカラクリは、今は観光用として、忍者が身を隠すためのものとして説明されている。
しかし、もともとは、薬の製造秘法を知られるのをおそれて作ったのではないかといわれている(石川正知『忍の里の記録』)。
忍者が火薬だけでなく、毒薬も含め、各種の薬を自由に使いこなしていることは周知の通りで、その意味からすると、忍者のもう一つのルーツとして、山伏の売薬的側面も重要だったように思われる。
2017年7月25日に「様々な忍者ーその1」と題して北条氏の小田原の
忍者を紹介しましたコチラです↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12289520732.html
2917年7月26日に「様々な忍者ーその2」と題して井沢元彦の文章を
紹介しましたコチラです↓
https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12289507314.html