「観自在(かんじざい)」
安岡章太郎(やすおか しょうたろう 1920~2013)
株式会社 世界文化社 2005年6月発行・より
それというのも、武市も東洋も、
どちらも もともとは長宗我部の遺臣の出なのに、
東洋は山内家に仕えており、
武市にすれば、裏切り者と映(うつ)ったはずだからです。
武市の尊王精神、つまり反幕勤王思想の一番手近な目標は、土佐における上士 (初代藩主山内一豊が遠州掛川から連れてきた者の子孫)と
郷士 (長宗我部の遺臣) の間の差別撤廃にありましたから、
それだけに、東洋に対する憎しみは強かったはずです。
上士と郷士の間での差別というのは、たとえばけんかをしても、
両成敗(せいばい)にならないで、郷士だけが討たれてしまうんです。
そんなとき、郷士が 「この御成敗には御差別あり」 と陳情書を出しているところからみても、郷士の側に非差別意識があったことがうかがえます。
その郷士を取り立てたのが、、先程申し上げた野中兼山です。
しかし、その野中兼山が役を退けられ、野中家が追罰をうけてからは、
郷士は藩全体から常ににらまれる存在になってゆきました。
そのうえ、時代が下がるにつれ、武士が経済的に貧窮するのに反して、
郷士や農民は豊かになり、
そうなればなるほど、身分差別が激しくなったわけです。
たとえば、日常身につけるものにしても、郷士は城下で下駄(げた)をはいてはいけないとか、傘をさしてはいけないとかの規則がつくられたのです。
高知の桂浜に坂本竜馬の銅像が建っていますが、
竜馬は袴の下にぶかぶかの革靴をはいています。
あの革靴は竜馬の進歩的な思想の表れであるという人もいますが、
あれは、郷士だから草履しかはけなかった竜馬が、腹が立ったので革靴をはいたのだろうと、私は思います。
下駄をはけないということがどれほどの屈辱であったかは、
よく分かりません。
が、明治元年(慶応四年・1868年)に土佐藩兵が大阪の堺に上陸して来たフランス人に発砲、水兵たちを殺した事件で、
発砲した藩兵たちが切腹させられる 「堺事件」 が起こったとき、兵隊(足軽)たちは切腹させられる前に上士扱いにしてほしい、と願い出ています。
上士扱いとは 「苗字御免、下駄御免」 ということで、切腹する前に下駄をはかせてほしい、と要求しているのです。
しいたげられた郷士や足軽など下士たちの気持ちが、下駄という言葉の中によく出ていると思うわけです。
武市半平太もあれほど有名な人間でしたし、竜馬は剣術もうまく、武士として極めて有能なのに、ずっと下駄をはくことを許されませんでした。
しかし、経済的にみると、竜馬の家は土佐で三大財閥の一つといわれていて、土佐藩の家老や山内家にも金を貸しており、正月には家老があいさつにくるというほどだったんです。
他藩の場合は郷士や農民が侍に取り立てられるという例はかなりあるのに、土佐藩の場合は絶対に、といっていいほどなかったんです。
5月7日和光市内(埼玉)にて撮影