老人が夏目漱石を読むと | 人差し指のブログ

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本を読んで面白かったところを紹介します

 

 

 

「実践・快老生活 知的で幸福な生活へのレポート

渡部昇一(わたなべ しょういち 昭和5年~平成29年

株式会社PHP研究所 2016年10月発行・より

 

 

 

そのような意味で私が漱石を本当におもしろく読めるようになったのは、大学三年生の夏、教育実習のために東京の神楽坂の近くの高校に通ってからのことであった。

 

(略)

 

私にとって漱石体験は大きな意味を持つものであった。

 

 

もちろん、漱石の 『こころ』 も読んで、深く心を打たれた、若い時分には、わからない部分も多かったから、「知識人の心の底を描いているのだろう」 と思っていた。

 

(略)

 

ところが、今の歳になってみると、『こころ』 に書かれた内容はおかしいのではないかと思えてくる。

 

 

『こころ』 の主人公の 「先生」 は、学生時代に親友の 「K] を出し抜いて下宿のお嬢さんと結婚した。

 

「K」 はショックを受けて自殺をしてしまった。

 

そのことがずっと心にわだかまっていて、「先生」 は乃木希典(まれすけ)

大将の殉死を一つの契機として、結婚から十年以上を経ていただろうにもかかわらず遺書を書いて自殺をする、という筋である。

 

 

しかし、本当にこれが感動できる話なのだろうか。

 

 

「先生」 は、学生時代に親友を裏切ったと思い込んでいて、ずっと罪の意識を持ち続けている。

 

それにこだわって奥さん(つまりかつての下宿のお嬢さん)に子供も産ませなかった。

 

奥さんはわけもわからず夫婦生活を送り、子供をもうける幸せを奪われ、そして夫に自殺をされてしまったことになる。

 

 

 確かにこの作品で漱石は、普通の人間がいざという間際に急に悪人に変わってしまいかねない心のひだを印象深く描いている。

 

だが、「先生」 の懊悩など結局は自分だけのことであって、奥さんのほうが、よほどかわいそうではないか。

 

 

そう思うと、いっぺんに白けた気持ちが湧いてくる。

 

 それをいってはおしまい、という声が上がるかもしれない。

 

 

私自身も若い人たちに、このような一見ひねた読み方を奨めるものではない。

 

 

だが世評をはばからず率直にいえば、今の私は、若い自分がなぜあれほど感動したのか、よくわからない。

 

時を忘れて熱中するほどの思いで読むこともできない。

 

若いころの私は奥が深いと思って読んでいたけれども、今ではそうとも思えない。

 

読書人として自分が進化したのか、退化したのかはわからないが、感動するような大した話には思えないのである。

 

 

 

考えてみれば、漱石が 『こころ』 を書いたのは四十七歳ごろのことである。

 

漱石よりも四十歳ほども年長となった私から見れば、「ああ、漱石はまだ若かったんだなあ」 と感じられてしまうのも、やむをえないことであろう。

 

(略)

 

漱石の弟子たちが 「傑作だ」 と激賞した 『道草』 も、今考えてみると、実に馬鹿馬鹿しい。

 

話の筋は、大学教師が養父や義父から金を無心されて悩み抜くというものだ。

 

 

明治時代は今と違って、恩給や月給をもらう人が少なかった。

 

だから、月給をもらっている人は借金の保証人を頼まれることがよくあった。

 

大学の先生は給料をもらえるので信用がある。

大学の先生の保証があれば金を貸してもらえた。

 

 

東大の哲学科を出て、一時期東大で教えていた三宅雪嶺(せつれい)も、

兄の借金の保証をして取り立てにあっている。

 

(略)

 

雪嶺の月給日には、借金取りが押しかけてきた。

 

結局、雪嶺は借金取りが煩(わずらわ)しいので教員を辞めて、月給を取る職業には二度と就かないことを決めた。

 

(略)

 

雪嶺以外にも、大学の先生の中には、借金取りから逃れるために大学を辞めた人がいる。

 

退職後に職に就けずに、人生を棒に振った人が何人もいたと伝えられている。

 

 

そういう時代の話を漱石は書いたわけである。

 

八十五を過ぎた人間にいわせれば、危ない借金や、その保証は断る以外に仕方がない。

 

世の中には銀行というものがあり、筋の通った借金なら銀行が貸してくれる。

それすら思いつかないで悩みに悩んだ話を一冊の本にするなど、馬鹿馬鹿しいことこのうえない。

 

それに感心する弟子たちも、みなどうかしている。

 

これが老人になってからの私の感想である。

 

 

気の利いたふうな若い人は、こんな漱石の読み方を聞くと、「歳をとると感受性がなくなるのですね」 などと評するかもしれない。

 

 

だが、そもそも漱石にかぎらず、私小説的な読み方は、人生経験の豊富な年寄りには楽しめないものかもしれないのである。

 

 

先にも書いたように、歳を重ねると、若き日の悩みの多くが実に取るに足りぬものであることが、よくわかるようになるのであるから。

 

 

であるならば、これまで好きだった本がおもしろくなくなったからといって

「感受性が落ちた」 などと嘆く必要もない。

 

 

馬鹿馬鹿しく思えてならぬものに拘泥(こうでい)することもなく、別の楽しみを見つけ出していけばいい。 

 

    詩は何歳になっても感動できる

 

歳をとってから漱石の小説を楽しめなくなった私が、今なお漱石について感服するものがある。

それは漱石の漢詩である。

 

                                                 

 

6月21日に 「年を取ってから本を読み返すと」 と題して同じような話を紹介しました。こちらです↓

https://ameblo.jp/hitosasiyubidesu/entry-12285097790.html

 

 

5月7日 和光市内(埼玉)にて撮影