年をとってから本を読み返すと・・・・ | 人差し指のブログ

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パソコンが苦手な年金生活者です
本を読んで面白かったところを紹介します

 

 

 

私は若い頃、川端康成さんも読みました。

 

(略)

 

年をとると、若い頃読んだ小説とは見方が変わります。

『山の音』 は、丁寧に書いてはあるものの、終戦直後の日本を扱った

かなり際物(きわもの)のような気がしました。

 

 

『雪国』 は筋もないし、「つまらない」 の一語に尽きました。

これぐらいなら誰でも書けるんじゃないかという感じさえしました。

 

 

『千羽鶴』 は、ちょっと異常な状況で川端さんが自分の骨董(こっとう)趣味をひけらかすために書いたのかと思えるような安っぽさを感じました。

 

 

少なくとも、川端さんがこれらの小説を書いた年よりも、

私は年をとっているわけです。

 

 

小説は怖いところがあります。こちらが年をとると、

「何を青臭いことを書いて」 という発想になるのです。

 

 

一番極端なのは夏目漱石です。

 

夏目漱石の 『道草』 は、漱石の弟子たちが一番褒(ほ)めた作品です。

私は、初版本を持っています。

 

(略)

 

私が 『道草』 を読んだ感想は 「?」 でした。

 

『道草』 は、自分の女房のお父さんから借金を頼まれた官立の学校に勤める主人公が、給料担保はできるが、果たしてその危険を冒(おか)してまでお金を義父に貸したものか貸さないものかと悶々(もんもん)と悩むところだけが丁寧に書かかれているのです。

 

 

漱石の弟子たちは、まだ就職をしていないぐらいの年ですから、

それをものすごく深刻な人生小説として読みました。

 

 

ところが五十歳ぐらいの時に読むと愕然とします。

もし若い講師や助教授が私にそんなことを相談にきたら、

そんなものは三〇分で解決できることで、小説のタネにはなりません。

 

 

ところが、漱石の俳句や漢詩は違うのです。

詩の感動というのは、小説とは違います。

読者が年をとってからでも感動させられるのです。

 

 

たとえば、島崎藤村が若い時につくった 『千曲川旅情』 の 

「小諸(こもろ)なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ」 

は今読んでも、ジーンと来るものがあります。

 

(略)

 

小説に限りません。

明(みん)の洪自誠(こうじせい)の書いた 

『菜根譚(さいこんたん)』 という本があります。

 

 

私はある時、谷沢先生との対談で、『菜根譚』 の有名な箇所を取り上げて、感想を述べ合いました。

 

 

ところが、「こんなことは日本では通用しない」 「明の時代のシナ人だからこんなことを言うのだろう」 など、賛成できることよりも、賛成できないことのほうが多くなってしまいました。

 

 

洪自誠は、私よりも若い時期に 『菜根譚』 を書いています。

若い人の書いた教訓は、やはり限られてくる。

年をとった人と若い人では、教訓に別の意味があるのです。

 

(略)

 

しかし、さすがに 『論語』 はたいしたものです。

年をとればとるほど、なるほどと思います。

 

 

伊藤仁斉(じんさい)が 「最上至極宇宙第一の書」 と言ったのも納得ができます。

 

 

孔子が特別偉かった他に、『論語』 は七十歳以上も生きたひと    

当時としては今の百歳にもあたる長寿者    の言葉を、

すぐれた弟子が拾録したものですから、

こちらが年をとってから読んでも新鮮な感銘を受けるのでしょう。

 

 

「老年の豊さについて    生を愉しみ、老いにたじろがず

渡部昇一(わたなべしょういち 1931~2017

大和書房 2004年5月発行・より

 

 

海棠の花 4月12日 光が丘公園(東京・練馬)にて撮影