「下町の結婚」と「山の手の結婚」 | 人差し指のブログ

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本を読んで面白かったところを紹介します

 

 

 

「男女の仲」

山本夏彦 (やまもと なつひこ 大正4年~平成14年)

株式会社 文芸春秋 平成15年10月発行・より

 

 

 

<山本>    忠は露骨にいえば生活の問題です。

          夫婦も生活の問題です。

女は結婚することを戯れに永久就職といった。

 

 

そのために一夫一婦制が守られられた。

一夫一婦には本質的に虚偽が含まれている。

 

 

それでも、あれは人間のつくったものとしては割によくできている。

 

しかし不自然が含まれているからきびしい教育をした。

 

 

 

山の手の武家では比較的守られたが、下町では守られなかった。

そして明治百年は山の手が下町を征伐した時代ですよ。

 

 

              一夫一婦制も教育のたまものだったんだすか。

 

 

<山本>    そうです。江戸に続く明治初年までは下町では十六,七が適齢期で、顔見知りの近所の若者と一緒になる。

それを 「出来合い」 といった。

 

 

恋愛結婚に似たものです。初々しい花嫁というのは、十六、七だから言えたのですよ。互いに近所身知りごしです。

 

 

裏店では結婚して 「しまった」 と思ったらすぐ別れた。

別れても十八、九だからまだ貰い手があって今度は添いとげた。

 

 

恋愛結婚という言葉はなかったが似たもので 「野合(やごう)」 ともいった。

 

明治は離婚率が最も高い時代で、福澤諭吉が 「早婚のいましめ」 

を書いたくらいです。

 

 

 ただ山の手は違う。侍の子孫で、見合いでした。

 

つりあわぬは不縁のもと、似合いの家から嫁をもらった。

男女七歳にして席を同じうせず、交際がないから、年ごろになると世話する人があらわれて売れ残るということがなかった。

 

 

拒否権は娘にあったから稀には五回も十回も見合いして断る娘がいた。

 

 

あきれて世話する人が手をひくた、全く違う人からの縁談であっという間にまとまることがある。「縁」 です。

 

 

明治の末ごろから山の手では五年制の女学校へ行く娘がふえて適齢期は数え二十三歳にのびた。

 

二十五になると売残りといわれた。

 

山の手の風(ふう)は下町に及ぶ。そこへ明治の末のウーマンリブ、これも次第に下町に及びました。

 

 

 

                                                                                                                

 

 

 

センダンの木の花 5月18日朝霞市内にて撮影

「栴檀は双葉より芳(かんば)し」 の 「栴檀」 は 「白檀」 なんだそうです。  この木とは違うようです。  小学校に植えられていました。