例えば中国人はもともと人間を食べる歴史と文化を持っている。
私は十年前 「中国では人口問題と食料問題は同時に解決する。ときどき人口が半分になる」 と、民主党の外交政策研究会で言ったことがある。
だから臓器売買ぐらいは当たり前のことで、驚くには値しない。
どこかでやっているだろうと思っていたが、
やっと最近マスコミにも出てくるようになった。
というのは、三十年ぐらい前に中国を訪ねたときのことだが、
そのとき案内してくれた人は、紅衛兵革命では何千万人が死んだという。
共産党の公式文書でも、二五〇〇万人死んだと書いてある。
反革命分子は容者なくつるし上げて、殺したと書いてある。
「しかるに、これだけ私が中国を旅行させてもらっても、お墓が全然ない。
なぜだ?」 と言ったら、返事をしない。食べたに決まっている。
当時は食糧難で、何も食べるものがない時代である。
だから食糧にするために、反革命分子をつくって
無理やり殺して食べたのだろう・・・・・・と、
そこまでは言わなかったが、二人だけの時に
「お墓がないんだから食べたんでしょう」 と言ったら、
しばらくして廊下に出たら 「そのとおりです。よくわかりましたね。日本人にしては珍しい」 と言った。
もちろん全然怒っていない。
人を殺して食べて何が悪いと思っているからである。
弱肉強食は中国では世の習いである。
孔子の 『論語』 の中にも書いてある。
孔子の家に、人間の肉の酢漬けがあったに違いない。
子貢という一番弟子が議論の勝負に行って、議論に負けたら相手を食ってやるという決闘をしたら、逆に議論に負けて子貢が食べられてしまった。
それを孔子は深く悲しんで、自分の家にあった肉の酢漬けは全部捨てさせたという話が 『論語』 に書いてある。
中学二年生のときに習ったが、「先生、孔子が捨てた肉は何の肉ですか?
やはり人間の肉だったのではないですか?
だから慌てて捨てたのでしょう」 と言うと、
「そんなことを言うものではない。何の肉でも見るのが嫌になっただけだ」
と言っていたが、それが日本人のセンスである。
理想主義に生きると、現実主義なら見えるものも見えなくなる。
見てはならない。言ってはならない。
自分はそういう人間だ、とポーズをとるようになる。
これが中国につけ込まれるのである。
「独走する日本 精神から見た現在と未来」
日下公人 (くさか きみんど 昭和5年~)
PHPファクトリー・パブリッシング 2007年11月発行・より
千鳥が淵(東京・千代田区)にて4月10日撮影