当時のパリの「黒澤・小津人気」 | 人差し指のブログ

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本を読んで面白かったところを紹介します

 

 

いまはなくなってしまったか知れないけれど、十五年ばかり前までは、パリの左岸、ソルボンヌ大学発祥地近くの有名なサン・ミシェル大通りをセーヌの流れを背にして右に入ったところに、モノクロ時代の映画専門の映画館があった。

 

 

 

ふつうのアパルトマンの一部に手を加えたもので、換気などもゆきとどかないにもかかわらず、週に二日の上映日には八割がたの客席が満たされていた。

 

 

 

あるとき 「数ヵ月つづけてオヅの作品だけにしぼる」。私が小津安二郎監督の大ファンになったのは、あの映画館のおかげである。

 

 

 

家にも近く、散歩道の延長でもあるし、入場料の安いこと、込まないこと、加えてすぐ近くには 「知る人ぞ知る」 手ごろでうまいフランス料理店もいくつかあるとなれば、常連になるのは当たりまえだ。

 

 

 

 

「フランスで」 「ヨーロッパで」 とは言わないが、「サン・ミシェルあたりの人種に限って言えば」 「世界のクロサワ(黒澤明)よりニッポンのオヅ」 の方がずっと評価され愛されていた。

 

 

たったひとつ、クロサワの 『羅生門』 (1950)をのぞいては。

 

 

室町時代の都に近いある森の奥で起こった二人の男とひとりの女性をめぐるひとつの出来ごとの、とらえ方(心の視線)が三者三様みなちがう、

 

じゃあ 「ほんとのこと」 は何だったのかという心理的哲学的大問題を、

眼を(カメラを)通じてクロサワは、『羅生門』 の中でさらけ出したのだが、

 

芸術性もまたみごとで、一九五〇年後の数年間、ヨーロッパでは、「羅生門と深層心理の問題」 とか、「クロサワとユング(C・Gユング。一八七五~一九六一年、スイス人。精神分析学・心理学者)の関連」 などというややこしい対論会や、「クロサワの芸術と人生観」 など、思索・芸術分野でのニッポンがまじめにとりあげられ肩身の広いことだった。

 

 

 

 

私はそのころ、ソルボンヌ大学内・アンスチチュ・カトリックの聖書・宗教学部に籍をおいていたが、同級生たちからの 『羅生門』 をめぐる質問の多かったこと。

 

 

 

おかげで二回か三回、くり返し、なけなしの財布をさかさにして(当時、日本からの送金などとんでもない上、バイトの’くち’も乏しかった)『羅生門』 を見たものである。

 

 

 

文化面で日本がはじめて名をなしたことが半分誇らしく、半分 「もっと他にも文化資産はあるのにね」 とも思いながら。

 

 

そのうちに、オヅの名が浮上して来た。

 

 

 

クロサワはドラマチック。オヅは日常的。

 

クロサワは観客をひきこみ、オヅは観客の心にしみこむ。

 

 

どうしてこう、しみこむのかと、二本ばかり見たのち考えさせられ気づいたのが、日常些細(ささい)なありふれた人間もようや出来ごとを掘り下げてゆくオヅの 「視座」 「視線」 がだいじだったのだ、と。

 

もちろん脚本も展開のしかたも最高点に達してはいたけれど。

 

 

 

「歴史随想パッチワーク」

犬養道子 (いぬかい みちこ 1921~)

中央公論新社 2008年3月発行・より

 

 

千鳥が淵(東京・千代田区)にて4月10日撮影