軍人の世界にもはげしい立身出世というのがあって、
下の優秀者が、上のものを抜いていくということが基本であった。
天皇は格別の存在だけれど、
明治の軍人ほど実力者が上に抜きん出た制度はなかった。
兵から士官になれる道が開かれていたことなど、
ヨーロッパ先進国でもめずらしい制度だ。
これが日露戦争に勝った原因である。
明治というのは、
総成上がり社会で支配者は猫の手も借りたい時代でもあった。
能力者は何としても引っぱり出したい。
国家というものが、財界、学会をふくめ実力者をこれほど必要とした時代は珍しい。
徳川以来の武将戦略家というのは全く無能の極致、なにもならない。
全く新しい軍隊を大急ぎでつくらねば国が危ないという時代であった。
現在でも日本はまだまだ能力主義の世界といえる。
今西錦司(いまにしきんじ)先生が酔余の冗談に私にいわれた。
「『おれは能力があって埋もれていたのだけれども、世の中に不遇にして容られない』とさわいでいる連中の九十九パーセントは能力がない」
たしかにそうで、いまの世の中で能力ある人間は、学歴のあるなし、その他の損得は多少あり、得られた地位など十分とはいえないまでも何らかの形で浮かび上がる。
そうでなければ日本の繁栄がここまで来るはずがない。
すさまじい能力主義である。
ここでの安定を求めるというのは、無能力者の声である。
あとは年功序列だけでいいというのは、怠け者の天国であろう。
現在でも能力ある人間は決してGNPはこれでストップとは思っていまい。
もっと上がらなくては自分が駆け抜けることができないのだ。
エスカレーターで上昇することだけを望み、
すべてを政治家に託しているようでは終わりである。
GNPを上げろという至上命令が来たら、
駆け抜けるやつがわっと出て来る。
人は戦後だけをそういう時代だと考えているが、
明治時代はそれが一番激しい時代であった。
それが戦後形を多少変えて現在まで続いたにすぎない。
だが現在は、飢え死にする者はいない。
能力者の上昇度は明治時代ほど恵まれない。
明治時代は大将になることはすべてを約束される世界であった。
山県元帥など、上官として挙手の礼をとられた北白川(きたしらかわ)の宮を横目でじろりと見たまま答礼もせず通りすぎたという話を残している。
足軽出身者でもそこまでいけたし、贅沢三昧(ぜいたくざんまい)もできた。
「日本人の精神構造」
会田雄次(あいだ ゆうじ 大正5年~平成9年)
PHP研究所 2003年2月発行・より
4月10日 千鳥が淵(東京・千代田区)にて撮影