インドネシアの記念館と華僑 | 人差し指のブログ

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本を読んで面白かったところを紹介します

 

著者がジャカルタのインドネシア記念館のことを書いています。

 

「日本の感性が世界を変える 言語生態学的文明論

鈴木孝夫 (すずき たかお 1926~)

株式会社新潮社 2014年9月発行・より

 

 

つまり、日本がインドネシアの独立に果たした役割を示すものが、なぜか何も飾られていないのです。

 

 

この私の疑問に対して、明らかにインドネシア系とわかる風貌の大臣は、

彼の国はいまだに隠然たる勢力を持っている中国系の華僑に、

いろいろと遠慮しなくてはならない立場にあるが、

やがては本当の史実を堂々と語れる日が来ることを信じているとだけ、

苦々しげに語ってくれたのです。

 

 

 

そこで私はそうだったのかと目が開かれた思いでした。

 

 

つまりインドネシアではもちろんのこと、東南アジア一帯の長年西欧諸国の植民地であったところではどこでも皆、中国系の華僑が、現地民と宗主国の管理者の間に立って、さまざまな利益を得るという仕組みができていたのです。

 

 

 

彼らは当時の現地民とはちがって教育もあり、貿易や商売の実務にも長けていたためです。

 

 

そのような社会構造のあったところへ、日本軍が進駐してきて、宗主国の勢力を一掃して現地民を取り立てて教育して、国民としての意識を育てたため、華僑は多くの既得権を失うことになりました。

 

 

 

しかも華僑は、日本にとっては当時の敵国であった中華民国と様々なつながりを持っている民族集団ですから、シンガポールに進駐してきた日本軍に対して更衣隊と呼ばれる平服で不意に攻撃を仕掛ける国際法違反のゲリラ活動が頻繁におこったのです。

 

 

 

ですから日本軍は華僑すべてを信用するどころか、まるで中華民国のスパイでもあるかのように扱ったのです。

 

 

 

その表れの一つが、シンガポールでのいわゆる「華僑の大虐殺事件」とよばれるものなのです。

 

 

 

そこで当然この「日本憎し」の感情を持つ華僑が、日本が連合国に降伏するや、直ちに失地回復に乗り出し、日本の統治時代にこうむった被害を誇大に言い立て、現地の親日的な動きを封ずる挙に出たのは理解できます。

 

 

何しろ宣伝にかけては白髪三千丈の伝統を持つ百戦錬磨の人々ですから、すべてに経験が浅く世界の情勢にも疎かった現地の人々は、なかなか表立って華僑とは太刀打ちできなかったのです。

 

 

11月12日 光が丘公園(東京・練馬)にて撮影