参考資料3136 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

『諸世紀』の名を高からしめた一篇の詩
「長い流浪の旅を終え、ノストラダムスが南フランスのサロンという町に姿を現わしたのは1547年、44歳のときである。サロンの町に落ち着いたノストラダムスは、まもなく資産家の未亡人アンヌ・ポンサルド・ジュールと知り合い、結婚する。この町で開業した彼は、医師として活躍する一方、占星術師としても名をとどろかせ、結局ここで晩年をすごすことになる。
 ノストラダムスはここでも、病気の診断と治療に際しては患者のホロスコープをつくって応用し、ふつうの医者というよりも占星術師として評判を高めたようである。そのかたわら、彼は1550年から、年刊の『占星歴(アルマナック)』の発行をはじめた。これはその年の気象、農業、疫病および社会的な事件などを予言するものだが、その的中率がひじょうに高いことから大評判となり、占星歴の出版は大成功をおさめた。しかしその評判があまりにも高かったため、やがて彼の名を騙ったにせものが出まわりはじめ、そっちのほうはでたらめな予言だったので、一部にはノストラダムスを山師呼ばわりする声もあったようである。
 この『アルマナック』の1555年版から67年版までのものに、年間13篇の割りでノストラダムスは予言詩『予兆(プレサージュ)』を掲載している。それが合計169篇あり、これは『諸世紀』の予言詩とは区別して考えられるべきだろう。
 彼が『諸世紀』を刊行したのは1555年の5月である。しかしこの予言詩集は古いフランス語で書かれているうえ、ギリシャ語やラテン語がふんだんに織りまぜられているため難解きわまりなく、しかも年代が不明であるため、当初はまったく評価されなかった。ところがまもなく、そのなかの一篇の詩がみごとに的中する事件が起こり、『諸世紀』は大きく注目されることになった。それは第一巻の三五番目にある次の詩である。

若い獅子が老いた獅子を打ち負かすだろう
戦いの場で一騎打ちのすえ
黄金の檻のなかで眼を貫かれる
一つのものが二つになり、無残な死となる (Ⅰ35)

 この詩は次の事実によって裏づけられた。
 時のフランス王アンリ二世は1559年、王女エリザベスの結婚式の余興として盛大な野外試合を催した。そしてみずからも槍を取り、スコットランドの儀仗隊長モンゴメリを相手に試合を行なったのだ。ところが激戦のすえにモンゴメリの槍が二つに折れ、その先端が王の右眼に突きささったのである。王は激しい苦痛のうちに数日後、息を引き取った。『諸世紀』だ出された四年後のことである。」
「ノストラダムスの遺言書」ダニエル・ルゾー著・流 智明監修より

感想
>ノストラダムスはここでも、病気の診断と治療に際しては患者のホロスコープをつくって応用し、ふつうの医者というよりも占星術師として評判を高めたようである。

そんな訳ないだろう。例えば、1500年代の数学者は3次方程式の解の公式とか考えていたが、現代から見ればレベルは低いが科学的な精神で挑んでいた事だろう。結果だけを求めてオカルトに頼るような事はしないだろう。

「伝説では、この時ノストラダムスは、鼠がペストを媒介することに気付き、直ちに鼠退治を命じたという。また、伝統的な治療法である瀉血を否定し、かわりにアルコール消毒や熱湯消毒を先取りするかのように、酒や熱湯で市中の住居や通りなどを清め、更にはキリスト教では忌避されていた火葬すらも指示したとされる。

しかし、後年ノストラダムス自身が『化粧品とジャム論』で述懐しているこの時の様子に、当時の医学知識の範囲を超えるようなものはなく、むしろ瀉血を試みた形跡すらある。患者の隔離をはじめとする初歩的な公衆衛生上の方策を取っていた可能性は指摘されているが、それは当時として一般的に行われていたことで、決してノストラダムスに固有のものではない。

『化粧品とジャム論』には、その時に用いた治療薬の処方箋も載せられているが、イトスギのおがくずや、磨り潰したバラ、丁子などを原料とするその薬の効能は強く疑問視されている。また、それらの原料には中世から用いられていた伝統的なものがいくつも含まれている。結局のところ、彼の医療活動とペスト沈静化との因果関係は不明瞭なままである。現時点で確実に言えるのは、当時は医師達も尻込みする傾向の強かったペストの流行地に、自ら果敢に乗り込んで治療に尽力した人物ということだけであり、その実効性を評価しうるだけの材料には乏しい。なお、ノストラダムスが何度もペスト流行地に赴いていたにもかかわらず、自身がペストで命を落とすことがなかった理由としては、免疫が出来ていた可能性も指摘されている。」
引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%B9#%E5%8C%BB%E5%B8%AB%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%B4%BB%E5%8B%95

私も昔は五島勉氏の説を鵜呑みにして、300年後の技術(医学ではない)を使ってペストを鎮静化させたと思っていたが、どう考えてもこちらの方が真相だろう。沈静化は時が来ただけの事である。また、ノストラダムスは神に選ばれし者だから死ぬ事はないのだろう。(役割が終わるまでは。)現象的には免疫が出来ていた事は言うまでもない。

補足
ただし、こんな人物もいる。http://www.elfindog.sakura.ne.jp/DEE.htm(1500年代の魔術師兼数学者)
まぁ、ニュートンもオカルティスト兼数学者・物理学者だったが、オカルトとは分けて考えていた事だろう。

>これはその年の気象、農業、疫病および社会的な事件などを予言するものだが、その的中率がひじょうに高いことから大評判となり、占星歴の出版は大成功をおさめた。

評判になった事は本当である。

「当時、ノストラダムスの「暦書」類は、予言に関する著作としてはかなり評価が高かったようで、早くも1552年向けの「暦書」(正式名は伝わっていない)について、内容を剽窃した偽版が出されている(『医師にして占星術師クロード・ファブリ師による1552年向けの真の新占筮』アジャン、1552年)。
 反響はフランス国内にとどまらず、1557年向け、1563年向け、1564年向け、1567年向けはイタリア語訳版が出され、1559年向けは英訳版が出された。また、1566年向けはオランダ語訳版が出された。他方で、1560年代にはパリやロンドン、イタリア各都市などで、内容を適当に継ぎ合わせた偽版も複数回出版されている。」
引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%A6%E6%9B%B8_(%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%B9)#%E5%8F%8D%E9%9F%BF

びっくりするようなシンクロニシティーが起こっていたのだろう。(オウム真理教にも似たような現象が起きていたようである。元信者の話をいくつか読んだ事がある。他心通のように心を読み取られたような気になるらしい。よって、尊師は私の事を分かっていてくれるというような信頼関係が生まれるのだろう。)

>しかしその評判があまりにも高かったため、やがて彼の名を騙ったにせものが出まわりはじめ、

「最初の偽ノストラダムスであるノストラダムス2世も、初期に出したのは暦書の便乗本であった。」
(引用元は上と同じ。)

因みに、麻原彰晃も「真理の御魂」を名乗っていたので、最初の偽真理の御霊か。もっとも本物が現れるとは到底思えないが。(科学的には。)普通の状態で「イエスの再臨」が起こると考える人は能天気というより異常者である。

>この『アルマナック』の1555年版から67年版までのものに、年間13篇の割りでノストラダムスは予言詩『予兆(プレサージュ)』を掲載している。それが合計169篇あり、

念のため、169は13の2乗であり、「13はユダヤ教の聖数」である。また、あまり関係ないが、

「また、初めの出版のときに4巻の53番までは「一つの星の支配期間は354年4ヶ月」と関係あるのかもしれない。(353編だが354年を逆から読むと4巻53番だから。)
さらに、続いて2年後に7巻42番まで追加されたものが出版されたが、この642編に1555年を足すと2197年になり1600年を足すと3797年になるが、そのせいで42番なんて中途半端な数で止めたのだろうか。
因みに、この続きは8巻からになるので全部で942編。おまけで、1555+942=2497年でこれにカバラの聖数13×100年を加えると3797年になるがこれはこじ付けだろう(私のオリジナル)。」
引用元:https://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-12845605714.html

補足解説:1555年に出版された時は4巻53番までしかなかったという事。
また、「この642編」とは、1巻100編で第6巻までで600編と第7巻の42編で600+42=642編という事。
また、「この続きは8巻からになるので全部で942編」とは、7巻は42番で終わっているのである。念のため、4巻は54番から続けて完成させているが。つまり、全10巻で942編という事。
私のオリジナルにもちょっとは説得力が出て来るのではないだろうか。笑(どうでもいい。)

>ところがまもなく、そのなかの一篇の詩がみごとに的中する事件が起こり、『諸世紀』は大きく注目されることになった。それは第一巻の三五番目にある次の詩である。

若い獅子が老いた獅子を打ち負かすだろう
戦いの場で一騎打ちのすえ
黄金の檻のなかで眼を貫かれる
一つのものが二つになり、無残な死となる (Ⅰ35)

 この詩は次の事実によって裏づけられた。
 時のフランス王アンリ二世は1559年、王女エリザベスの結婚式の余興として盛大な野外試合を催した。そしてみずからも槍を取り、スコットランドの儀仗隊長モンゴメリを相手に試合を行なったのだ。ところが激戦のすえにモンゴメリの槍が二つに折れ、その先端が王の右眼に突きささったのである。王は激しい苦痛のうちに数日後、息を引き取った。『諸世紀』だ出された四年後のことである。

これは五島勉氏の「ノストラダムスの大予言」(初巻)にも載っている有名な話である。しかし、自分で訳すと全然違う事を述べているようだが、当時、このように信じられた理由は上でも書いたように異常なシンクロニシティーが起こっていたのだろう。

「この時代は、ノストラダムスの存命中(1550年代半ばから1560年代初頭まで)にあたる。ノストラダムスの予言は、大いにもてはやされた一方で、様々な批判が浴びせられた。そうした批判には、論理的な批判も見られた一方で、ノストラダムスを「モンストラダムス(モンストル=怪物、との合成語)」と呼ぶなど、単なる中傷に過ぎないものも少なからず見られ、かつてのノストラダムスの知人ジュール・セザール・スカリジェなども、こうした中傷に関与した。
 この時期の批判や中傷の特色としては、コンラッド・バディウス、ウィリアム・フルクなどプロテスタントからの批判が多かったこと、および主たる攻撃対象は暦書類であって、『予言集』は余り相手にされていなかったことが挙げられる。」
引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%B9%E7%8F%BE%E8%B1%A1#%E6%95%B5%E5%AF%BE%E8%80%85%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3

>『予言集』は余り相手にされていなかった

「しかしこの予言詩集は古いフランス語で書かれているうえ、ギリシャ語やラテン語がふんだんに織りまぜられているため難解きわまりなく、しかも年代が不明であるため、当初はまったく評価されなかった。」
「ノストラダムスの遺言書」ダニエル・ルゾー著・流 智明監修より

しかし、それとは違って「および主たる攻撃対象は暦書類であって」とあるように、「暦書」の方は相当シンクロニシティーが起きていたと想像される。全然当たっていなかったら攻撃する必要がないからね。少なくとも「怪物」と揶揄するんだからちょっとはビビっていたんだろうね。笑

詩百篇第1巻35番
若き獅子は老いた方を凌駕するだろう、
一騎討ちによる戦いの野で。
黄金の籠の中の両目を(彼は)引き裂くであろう。
二つのクラス(で勝ち残るの)は一つ、そして死ぬ、酷き死。

また、私の20年以上前の訳も挙げてみよう。

Le Lion jeune le vieux surmontera,
En champ bellique par singulier duelle,
Dans cage d'or loeil il lui crevera,
Deux plays une puis mourir mort cruelle. (原文はロバーツ本)
若いライオンがベテランを乗り越えるだろう
けんか早い分野で奇妙な決闘によって
黄金の鑑識眼の檻の中で彼は彼を裂くだろう
二人の勝負事、一人はそれから消える。苛酷な死ぬほどの苦しみ

因みに、麻原彰晃は1999年11月に東京拘置所内で自殺を図って失敗したらしい(「ザ・ワイド」という番組で有田芳生さんが言っていた)が、その理由なのではないだろうか。また、「二つのクラス」の一方は「オウム真理教」という事である。その後の理不尽な死刑も含む。
引用元:https://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-12818756931.html

おまけ