参考資料2061 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

箴言 その1
「1 ダビデの子、イスラエルの王ソロモンの箴言
2 これは人に知恵と教訓とを知らせ、悟りの言葉をさとらせ、
3 賢い行いと、正義と公正と/公平の教訓をうけさせ、
4 思慮のない者に悟りを与え、若い者に知識と慎みを得させるためである。
5 賢い者はこれを聞いて学に進み、さとい者は指導を得る。
6 人はこれによって箴言と、たとえと、賢い者の言葉と、そのなぞとを悟る。
7 主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。
8 わが子よ、あなたは父の教訓を聞き、母の教を捨ててはならない。
9 それらは、あなたの頭の麗しい冠となり、あなたの首の飾りとなるからである。
10 わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。
11 彼らがあなたに向かって、「一緒に来なさい。われわれは待ち伏せして、人の血を流し、罪のない者を、ゆえなく伏してねらい、
12 陰府のように、彼らを生きたままで、のみ尽し、健やかな者を、墓に下る者のようにしよう。
13 われわれは、さまざまの尊い貨財を得、奪い取った物で、われわれの家を満たそう。
14 あなたもわれわれの仲間に加わりなさい、われわれは共に一つの金袋を持とう」と言っても、
15 わが子よ、彼らの仲間になってはならない、あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。
16 彼らの足は悪に走り、血を流すことに速いからだ。
17 すべて鳥の目の前で/網を張るのは、むだである。
18 彼らは自分の血を待ち伏せし、自分の命を伏してねらうのだ。
19 すべて利をむさぼる者の道はこのようなものである。これはその持ち主の命を取り去るのだ。」
旧約聖書「箴言」第1章1節~19節

感想
>4 思慮のない者に悟りを与え、若い者に知識と慎みを得させるためである。
5 賢い者はこれを聞いて学に進み、さとい者は指導を得る。

独学ならいいが、宗教などに入って教祖に依存するのは止めた方がいい。

「私は導師ではない。あなたがたは誰にも頼ってはならない。自己の内なる魂の声だけを依りどころとして進みなさい。さもなければ、あなたがたは精神的な奴隷となってしまうだろう。権威をふりかざし、あなたがたを支配しようとする指導者を捜し求め、人生をさまよう放浪者となってしまうだろう。
 そして自己の進歩を忘れ、誰かの恩恵だけを求める人間となってしまうのだ。だから私はあなたがたに言っておく。自分の事は自分で救いなさいと。
 人は宗教の導師や教祖を慕うあまり、それを神格化し絶対視する。そのほかの可能性を頭から否定する。しかし、そのようなとらわれた意識をもってしては真実を見い出す事は出来ない。従って、諸君は私を権威者として見たり崇拝の対象として見たりしてはならない。諸君は自由でなくてはならない。
 どうかこれから、私の言う事を信じないで欲しい。しかし、疑わないで欲しい。頭から信じたり疑ったりせずに、自分の頭でよく考え、実行し、確かめて欲しいのだ。なぜなら、そうして得られた知識こそが本物であるからだ。自分を救うのは自分以外にはいない。私はただヒントを与える事が出来るだけだ。自ら救おうとする者はそこから学ぶだろう。与えられるのを待つ者は何も得られないだろう。」
「ファウスト博士の超人覚醒法」斉藤啓一著より

>7 主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。

以前にも書いたが、現代の科学を知っているぐらいで「神の計画」をバカにするのは愚かな事である。

>8 わが子よ、あなたは父の教訓を聞き、母の教を捨ててはならない。

因みに、イエスはこんな事を述べている。

「モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。
それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、
その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。」
「マルコによる福音書」第7章10節~12節

念のため、「コルバン」とはヘブライ語で、「神への献げもの」という意味。個人的には、「神への献げもの」こそ「父母を敬い」ながらも依存しないという、しっかりとした自立精神を持っていなければならないと思うが。

ただし、「終わりの時」の教えは特別らしい。

「34.地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
35.わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
36.そして家の者が、その人の敵となるであろう。
37.わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
38.また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。」
「マタイによる福音書」第10章34節~38節

携挙のためにこんな事が起こるのだろう。そして、イエスの代行者は「真理の御霊」(契約の使者)である。(イエスは再臨するだけ。)

>14 あなたもわれわれの仲間に加わりなさい、われわれは共に一つの金袋を持とう」と言っても、
15 わが子よ、彼らの仲間になってはならない、あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。

「01:14我々と運命を共にせよ。財布もひとつにしようではないか。」
01:15わが子よ
彼らの道を共に歩いてはならない。その道に足を踏み入れるな。」(新共同訳)

オウム真理教の出家信者か。

「後年の麻原流タントラヴァジュラヤーナは、オウム内でも麻原は口に出していませんでしたし、いまなら誰でも知っているテロ的裏工作も、当時はサマナ(注:出家信者)ですら知る人はほとんどなかったのです。
 しかし、平成四年の夏ごろから、ティッシュペーパーは使わず、トイレットペーパーの巻紙を使うことが指示され、書類は裏紙まで使用し、業財という月々のサマナの生活用品購入のために支給されるお金も、師のレベルで一万五千円から七千五百円に減額されるようになりました。いまから思うと、教団が活動を活発にしていった平成三年夏ごろから資金に不足をきたすようになり、加えて平成四年四月以降、ロシアでの放送権を獲得、維持するために支部を増設置するなど、ロシアでの活動が「ケタ違い」に資金を食いつぶしていったことが、その時期の生活引き締めの指示の理由だったのだと思われます。
 平成二年から四年には、裏での武装化の動きは出ていないのですから、ロシアでの教団活動が、サマナの生活状況や支部での布施集めの基本的発想を変化させることになったのだと思います。
 そして、平成五年には、武装化の動きがはっきりと加わり、その傾向は一層「加速」していくことになったものと思われます。
 十一月、麻原は各地の学園祭で講演会を開き、ノストラダムスの予言の解説として、2000年にかけての予言を語っています。これまでの麻原の予言と比べて、具体性があるのが特徴でした。そこからは、麻原にとってノストラダムスの予言がどんな意味をもっていたのか、平成四年十一月ごろの麻原が、自らの役割をサマナにどう理解させたかったのか、そして、平成五年(注:1993年)以降のオウムの裏の動きの展開の背景が読みとれるのではないかと思います。」
「オウムと私」林郁夫著より

>17 すべて鳥の目の前で/網を張るのは、むだである。
18 彼らは自分の血を待ち伏せし、自分の命を伏してねらうのだ。
19 すべて利をむさぼる者の道はこのようなものである。これはその持ち主の命を取り去るのだ。

「01:17翼あるものは見ている。網を仕掛けるのは徒労だ。
01:18待ち伏せて流すのは自分の血。隠れて待っても、落とすのは自分の命。
01:19これが不当な利益を求める者の末路。奪われるのは自分の命だ。」(新共同訳)

オウム真理教に引っかからないような人は「翼あるもの(鳥)」なのだろう。(オカルト(超能力や悟りや解脱)に関心がない人は除く。)

「この平成四年(注:1992年)という年のオウムは、野方AHI(注:オウムの付属医院)にいた私から見ると、麻原は海外から国賓で招かれ、聖者として遇され、国内では一時停滞していた支部活動が盛んになって入信者数も増え、やっと麻原とオウムが真理であることが認められるときがきたという感じでした。
 チベット密教界のみならず、スリランカやラオスの上座部南伝仏教界でも、「聖者」とか「真のグル」といった認識を麻原に示し、私自身(注:林郁夫)、スリランカで尊崇を集めている修行僧、アーナンダ・マイトレーヤ師が麻原を賞賛している言葉を聞いていたのです。
 一方日本では、「朝まで生テレビ」という番組に出て「幸福の科学」と論争したり、ビートたけしの対談番組に出たりなどして、麻原とオウムが少しずつ見直されてきているようにも感じられました。中沢新一や島田裕巳、荒俣宏との対談などもおこなわれ、宗教家としての麻原が理解されてきたのだと思いました。宗教についてそれなりの知識を持った人が、先入観なしにオウムの教義や修行法を検討すると、当時公開されていた情報や麻原の談話からは、そのような評価にならざるをえないのです。」
「オウムと私」林郁夫著より

おまけ