参考資料2050 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

ラプチャーこそがYHWHからの最終回答 その23
ラプチャーに取り残される人々がいる
「ならば、とてもノホホンと遊び呆けているときではないはずです。
「あなた方が放縦や泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がワナのようにあなた方を捕えることがないようによく注意していなさい」(ルカ伝21/34)
 注意して「取り上げられる」組に入らねばなりません。そのためにはどうしたらいいのか。クリスチャンにならねばダメなのか。
 いえ、それはありません。そう主張するとすればそれは教会側のPRに過ぎず、イエス自身はこう述べているのです。
「よく注意していなさい。その日は地の全面に住むすべての人々に臨むのであるから」(ルカ伝21/35)
 現在でさえキリスト教が”地の全面に住むすべての人々”に浸透しているとはとても思えません。
 また「目を覚ましていなさい。わたしがあなた方にいうこの言葉はすべての人々にいうのである」(マルコ伝13/37)
 つまり、宗教宗派を問わず国家民族を問わず”すべての人々”に平等だというのです。
 では、どういう人々が「取り上げられる」というのか。
 その前にツメておきたいことは、この地上には、まだ「取り残された」組が生存しているということで、この物質地球はまだ終わっていないことを意味しています。いや待てよ。この世界は”突然変異”を遂げてしまったのではないか。いえ、実質的な物理的変異が実現するのは次の「千年王国」でのことなのです。ラプチャーはあくまでこの時点以降に起こる”かつてない艱難”から選民たちを救いだすための、いわば臨時の”緊急避難処置”といえましょう。したがって、現在のこの世界はラプチャー後もしばらくは続くことになります。」
「ヤハウエの巨大潮流預言」柴藤甲子男著より

感想
>ラプチャーに取り残される人々がいる

選別なのだから当然の話である。
>要するに、全人類がすべてこの恩典にあずかれるわけではないらしいのです(文字どおりの”確率二分の一”ではないにしても)。”全入制”ではないということです。

当然である。そこの所は、内藤正俊氏に代弁してもらおう。

「この世はあまりに腐り切っている。こんな腐った土台の上に、地上天国など築かれようはずもないのだ。この腐り果てた世の中がそのままでよいとするのは、薄汚いところに住むダニ、ゴキブリ、ウジ虫の類いである。
 かつて光輝く「神のかたち」に作られた人間は、今やたんなる「五尺五寸のクソ袋」と化している。その人間が「私は排泄物製造機」ではないと自覚することもなく、堕落するばかりで、少しも向上しようとする意思がないとすれば、これはきれいさっぱり焼き払い、消毒する以外、手の打ちようがない。」
「666の大破滅」内藤正俊著

私の予想では、1/3ぐらいが携挙されるんじゃないかな。その根拠は、

「主は言われる、全地の人の三分の二は断たれて死に、三分の一は生き残る。」
「ゼカリヤ書」第13章8節
引用元:https://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-12437226174.html

>注意して「取り上げられる」組に入らねばなりません。そのためにはどうしたらいいのか。クリスチャンにならねばダメなのか。
 いえ、それはありません。そう主張するとすればそれは教会側のPRに過ぎず、イエス自身はこう述べているのです。
「よく注意していなさい。その日は地の全面に住むすべての人々に臨むのであるから」(ルカ伝21/35)

私もこの著者の意見に賛成である。因みに、イエスも初期はユダヤ人のみと考えていたようである。

「5.イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人(びと)の町にはいるな。
6.むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。」
「マタイによる福音書」第10章5節~6節

「22.すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。
23.しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子(でし)たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。
24.するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
25.しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。
26.イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
27.すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
28.そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。」
「マタイによる福音書」第15章22節~28節

同じ場面を「マルコによる福音書」から。

「25.そして、けがれた霊につかれた幼い娘をもつ女が、イエスのことをすぐ聞きつけてきて、その足もとにひれ伏した。
26.この女はギリシャ人で、スロ・フェニキヤの生れであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。
27.イエスは女に言われた、「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
28.すると、女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。
29.そこでイエスは言われた、「その言葉で、じゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。
30.そこで、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」
「マルコによる福音書」第7章25節~30節

ギリシャ人は異邦人だから救われる必要はないと考えていたのだろう。

「10.人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。」
「ルカによる福音書」第19章10節


「9 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、
10 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と/小羊からきたる」。」
「ヨハネの黙示録」第7章9節~10節

この人たちはクリスチャンなのだろうか。

「42.イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、
『家造りらの捨てた石が
隅(すみ)のかしら石になった。
これは主がなされたことで、
わたしたちの目には不思議に見える』。
43.それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国(みくに)にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。」
「マタイによる福音書」第21章42節~43節

「家造りらの捨てた石」とは、ずばりクリスチャンではない人々だろう。一応、原文も調べてみよう。

「118:17 わたしは死ぬことなく、生きながらえて、主のみわざを物語るであろう。
118:18 主はいたくわたしを懲らされたが、死にはわたされなかった。
118:19 わたしのために義の門を開け、わたしはその内にはいって、主に感謝しよう。
118:20 これは主の門である。正しい者はその内にはいるであろう。
118:21 わたしはあなたに感謝します。あなたがわたしに答えて、わが救となられたことを。
118:22 家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。
118:23 これは主のなされた事でわれらの目には驚くべき事である。
118:24 これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。」
「詩篇」第118章17節~24節

異邦人とは書いていない。やはり、クリスチャン以外の人達だろう。因みに、「神に懲らしめられた人」が所属しているグループらしい。

ノストラダムスの予言詩10巻75番
Tant attendu ne reviendra jamais
Dedans l'Europe, en Asie apparoistra
Un de la ligue yssu du grand Hermes,
Et sur tous roys des orientz croistra.  (ラメジャラー本の原文)
とても期待(予期)されるものは決して戻って来ないだろう
ヨーロッパの中には。アジアの中に現れるだろう
偉大なヘルメスから生まれた同盟の一つ(同盟からの一人)
そして東洋の全ての王たちを越えて成長するだろう
補足:https://www42.atwiki.jp/nostradamus/pages/203.html

>その前にツメておきたいことは、この地上には、まだ「取り残された」組が生存しているということで、この物質地球はまだ終わっていないことを意味しています。いや待てよ。この世界は”突然変異”を遂げてしまったのではないか。いえ、実質的な物理的変異が実現するのは次の「千年王国」でのことなのです。ラプチャーはあくまでこの時点以降に起こる”かつてない艱難”から選民たちを救いだすための、いわば臨時の”緊急避難処置”といえましょう。したがって、現在のこの世界はラプチャー後もしばらくは続くことになります。

ラプチャー(携挙)が終わった後の事を述べているようである。個人的には、ラプチャーはハルマゲドンの最中と考えている。艱難前では、「艱難汝を玉にす」とならないからである。

おまけ