ヨブの物語 その2
「悪魔は、もうこの賭けはじぶんのものだとばかり、意気揚々と神の前を立ちさった。それから、まもなくのことだ。ヨブの息子や娘たちは、いちばん上の兄の家にあつまって誕生日のお祝いをしていた。でも、父親のヨブは用事があったので、家にのこっていた。とまもなく、ひとりの下男が息をきらして走ってきて、ヨブにつげた。
「わたしたちが牛やろばをつれていって畑を耕していると、いきなり乱暴者どもが襲ってきて、働いている者たちを殺し、家畜をみんな奪っていきました。助かったのはわたし一人だけでございます。」
それをきいてヨブが悲しんでいるひまもなく、そこへまたべつの下男が走ってきて言った。
「わたしたちが野で羊の群れに草を食べさせていますと、急に天から火の雨がふってきて、羊も下男もみな打ち殺されました。災いをのがれたのは、わたしひとりでございます。」
そこへまたもや、カルデヤ人がおそってきて、ヨブのらくだを残らず奪っていったという知らせがとどいた。
ヨブは天をあおいで悲しんだ。家畜はイスラエル人の一ばんの財産だから、それを失ってしまっては一文なしになったのも同様だった。しかもそこへ、もっと悪い知らせがとどいた。またもやひとりの下男が走ってきて、こう告げたのである。
「あなたの息子さんも娘さんも残らず死にました。わたしひとりはうまく助かりましたので、おお急ぎでお知らせにまいったのです。」
ヨブはこうして財産も子供もすべて失って、幸福の頂上から不幸のどん底に落ち、目の前がまっ暗になってしまった。彼は子供たちに死なれるくらいなら、じぶんが死んだ方がよかったと言って、服を引きさき髪をかきむしってなげいた。
それでもヨブは、信仰のあつい人だったから、決して神を呪うようなことはなかった。かえって、そこに跪くと、こう言って神をたたえた。
「わたしははだかで母のふところから生まれてきた。だからはだかで死んでいけばいい。神がお与えになったものを、また取りもどされただけだ。神に幸いあれ。」
これではさすがの悪魔も、歯がたたない。ヨブをもっとひどい目にあわせて、ためしてみようと考えた。」
「聖書物語・旧約物語」山室静著より
感想
一応、原文を挙げておこう。
「13 ある日ヨブのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいたとき、
14 使者がヨブのもとに来て言った、「牛が耕し、ろばがそのかたわらで草を食っていると、
15 シバびとが襲ってきて、これを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
16 彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「神の火が天から下って、羊およびしもべたちを焼き滅ぼしました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
17 彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「カルデヤびとが三組に分れて来て、らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
18 彼がなお語っているうちに、またひとりが来て言った、「あなたのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいると、
19 荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました。わたしはただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
20 このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、
21 そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。
22 すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。」
「ヨブ記」第1章13節~22節
一昨日の記事で、「ヨブじゃ「真理の御霊」(契約の使者)にはなれないなぁ」なんて書いて、悪かったな。ただし、その意見は今も変わってはいない。
「ヨブの場合、確かに神を信じているのですが、「正しい者はこんな目に遭うはずがない、あってはならない」という自分の考えを主張しているのです。言うなれば、我意を主張しているわけです。神のなさることには私たちが分からないことが多くあるのだと受け止めて、神に対して「Say,Yes」と言えることが、真のへりくだりなのだということが、聖書の言わんとするところなのです。」
引用元:http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E8%AC%99%E9%81%9C%E3%81%A8%E9%AB%98%E6%8C%99
例えば、会社で昨日まで親切だった人が、急につかつかと急ぎ足で迫ってきて「出来もしねぇ事を引き受けてんじゃねぇよ」と言われても、「えっ、どうしたんですか?」などと訊かずに「すみません」と言うぐらいじゃないと「へりくだった人」とは言わないだろう。
または、大学の英語の授業でたまたま聞こえなかった所を授業が終わった後に質問しに行ったら、「ちゃんと聴いてろよ!」と言われても「すみません」と言うぐらいじゃないと選ばれないだろう。
そういう不条理を呑みこむような器じゃないと、神に依存しないで神の不条理に付いてはいけないだろう。(神に依存している人は問題外。)
「ヨブには彼らのいう「原因と結果の法則」が受け入れられませんでした。そして、ヨブの苦悩はますます強くなって、神に直接問いかけていく。「自分にはこんな悲惨な現実を経験するような罪を何一つ犯していません。それなのにどうしてですか。不条理です。」とヨブは神に問いかけます。これがヨブ記です。ではこのヨブの問いかけに対して、神はどう答えられたのでしょうか。 38章から神が「嵐の中から」ヨブに直接語りかけます。面白いことに、ヨブの問いかけに対しては一切答えずに、こう仰せられたのです。「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。さあ、わたしはあなたに尋ねる。わたしに答えよ。」と言って、神もヨブに問いかけます。お前は「正しい自分が苦しむのはなぜか」と問いかけているが、それをともに考えてみようということになる。そして38章から42章まで、神がヨブに問いかけ続けます。「おまえは海の源まで行ったことがあるのか。深い淵の奥底を歩きまわったことがあるのか」とか、「おまえは地の広さを見極めたことがあるのか」とか、「そのすべてを知っているなら、告げてみよ」とたたみかけます。神はヨブに人間の知恵では計り知れないことを語っていく。つまり、神の答えとしては、人間には分からないことが多くあるという事実を突きつけながら、ヨブの提起した問いかけーつまり、なぜ義人が苦しむのかという問題は神に対してするのはおがましい、僭越だということなのです。あらゆることが計り知れない神の御旨から出ているという事実、そしてなぜかその理由はわからないけれども、神様には間違いがないという信頼をもって神の前にひれ伏すことができるか、というのが神の問いかけだったのです。」
引用元は上と同じ。
>なぜ義人が苦しむのかという問題は神に対してするのはおがましい、僭越だということなのです。あらゆることが計り知れない神の御旨から出ているという事実、そしてなぜかその理由はわからないけれども、神様には間違いがないという信頼をもって神の前にひれ伏すことができるか、というのが神の問いかけだったのです。
この先の未来で、「真理の御霊」(契約の使者)も他の選民のためかどうか分からないが、不条理な契約破棄により悲惨な目に遭う。まぁ、それが必要なのだろうと考えるのだろう。(千年王国建設のためには。)
「89:38 しかしあなたは、あなたの油そそがれた者を捨ててしりぞけ、彼に対して激しく怒られました。
89:39 あなたはそのしもべとの契約を廃棄し、彼の冠を地になげうって、けがされました。
89:40 あなたはその城壁をことごとくこわし、そのとりでを荒れすたれさせられました。
89:41 そこを通り過ぎる者は皆彼をかすめ、彼はその隣り人のあざけりとなりました。
89:42 あなたは彼のあだの右の手を高くあげ、そのもろもろの敵を喜ばせられました。
89:43 まことに、あなたは彼のつるぎの刃をかえして、彼を戦いに立たせられなかったのです。
89:44 あなたは彼の手から王のつえを取り去り、その王座を地に投げすてられました。
89:45 あなたは彼の年老いた日をちぢめ、恥をもって彼をおおわれました。
89:46 主よ、いつまでなのですか。とこしえにお隠れになるのですか。あなたの怒りはいつまで火のように燃えるのですか。
89:47 主よ、人のいのちの、いかに短く、すべての人の子を、いかにはかなく造られたかを、みこころにとめてください。
89:48 だれか生きて死を見ず、その魂を陰府の力から救いうるものがあるでしょうか。
89:49 主よ、あなたがまことをもってダビデに誓われた昔のいつくしみはどこにありますか。
89:50
89:51 主よ、あなたのしもべがうけるはずかしめをみこころにとめてください。主よ、あなたのもろもろの敵はわたしをそしり、あなたの油そそがれた者の足跡をそしります。わたしはもろもろの民のそしりをわたしのふところにいだいているのです。
89:52 主はとこしえにほむべきかな。アァメン、アァメン。」
「詩篇」第89篇38節~52節
「真理の御霊」(契約の使者)に落ち度はないだろう。それはヨブも同じ事。まぁ、結果オーライで千年王国が出来るのだろう。選民も「真理の御霊」(準備をする者)に依存(期待)する事もなくなるだろうし。
補足
「18 耳しいよ、聞け。目しいよ、目を注いで見よ。
19 だれか、わがしもべのほかに目しいがあるか。だれか、わがつかわす使者のような耳しいがあるか。だれか、わが献身者のような目しいがあるか。だれか、主のしもべのような目しいがあるか。
20 彼は多くの事を見ても認めず、耳を開いても聞かない。
21 主はおのれの義のために、その教を大いなるものとし、かつ光栄あるものとすることを喜ばれた。」
「イザヤ書」第42章18節~21節
「真理の御霊」(契約の使者)は、目しい,耳しいの王なのか?笑 念のため、目しい,耳しいは比喩である。
また、「真理の御霊」(契約の使者)は、「神の献身者」で「神の教え」を大いなるものとし栄光あるものとするので、「ヨハネによる福音書」第16章と矛盾しない。
「13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。」
「ヨハネによる福音書」第16章13節~14節
おまけ