参考資料1826 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

マタイによる福音書 その10
「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
また、あかりをつけて、それを枡(ます)の下におく者はいない。むしろ燭台(しょくだい)の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
そのようにあなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人(びと)の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。」
「マタイによる福音書」第5章13節~20節

感想
>あなたがたは、地の塩である。

塩と言えば、海水から取るものだと思いがちだが、中東の方では死海の近辺では山から取れるようである。(当然、岩塩は知っているが。)https://www.chubu-gu.ac.jp/about/christianity/chapelhour/talk/2010/101007-01/index.html(長いので初めの2つぐらい読めばいいと思う。)

>あなたがたは、世の光である。

「光」といえば、イエス・キリストというイメージがあるが。

「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。」
「ヨハネによる福音書」第1章4節~8節

洗礼者ヨハネでさえ「光」ではないのに、一般の弟子が「光」の訳がないが、そこは目標という事だろう。

「これは預言者イザヤによって言われた言(ことば)が、成就するためである。
「ゼブルンの地、ナフタリの地、
海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、
異邦人のガリラヤ、
暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、
死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。」
「マタイによる福音書」第4章14節~16節

イエスは「大いなる光」である。一応、原文は、

「1 しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。
2 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。」
「イザヤ書」第9章1節~2節

前回も書いたが、真の「終わりの時」とのダブルミーニングの可能性もある。https://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-12385280398.html

ところで、ノストラダムスの詩にこんな詩がある。

3巻94番の詩
500年より多く数えてからその人々は保つだろう
彼の時代の名誉(装飾)であったその人を
それから一度に崇高な光が引き起こすだろう
なんとこれによって時代は彼らをとても満足したものにするだろう
https://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-10394805275.html

 私は「彼の時代の名誉(装飾)であったその人」はイエス・キリストしかないと考えている。つまり、ノストラダムスの予言は「イエスの再臨」を予言しているのである。
 因みに、ノストラダムスは1503年~1566年の人物で、1555年にこの書は出版されたが、1503年に500年を加えても2003年なので、1999年の詩は明らかにダミーである。1555年5月4日に出版されているが、1999年7の月(7月ではない)なんてダミーっぽいとは思わないだろうか。

>わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。

イエスが何故こんな事を述べたのかは、イエスは改革者だったからだろう。例えば、それまでのユダヤ教徒は旧約聖書通りに食べてはいけない物は食べなかったが、イエスは何を食べても良いとした。因みに、イエスは大酒飲みである。

「19.また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人(つみびと)の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。」
「マタイによる福音書」第11章19節
https://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-12299439952.html

おまけ