聖書について その3
「しかし、このイスラエル人の文学には、ふしぎな強い力がある。国は滅び、民族はちりぢりになっても、イスラエル人たちはどこまでも自分たちの誇りをうしなわず、長い苦しい運命にたえて、第二次世界大戦の後には、故郷のパレスチナにもどって、新しい国づくりにいそしんでいる。かれらにそれだけの力を与えてくれたのも、それらの文学だったと言っていい。
そればかりでなく、その文学はイエス・キリストとその教えを生みだして、やがて自分たちの国を滅ぼしたローマ帝国をもついに精神的に征服し、人類の歴史を大きくかえて、今日では世界の隅々にまで行きわたり、あらゆる人々に大きな慰めと励ましを与えている。
マックス・ウェーバーはユダヤ民族を人種的というよりも社会的な賤民存在(パーリア)として捉えているが、「古代ユダヤ人の生活態度は、政治的及び社会的革命が、やがて神の指導の許に行なわれるという観念によって隅々まで規定されていた」(古代ユダヤ教)としている。
最初は単にイスラエルという小さい民族の宝であった書物が、やがてキリスト教の聖典となってヨーロッパ全体の宝になり、今ではさらに全世界で読まれているのも、そこにそういう力強い、よりよき未来を待ち望む精神が流れているからとしなければならないだろう。
その独特の力は、なによりも、かれらがただひとりの絶対の神エホバ(正しくはヤーヴェという)を信じて、その教えを守りぬいてきたことから生じた。イスラエル人たちは時にはその教えからはずれて、まちがった道に迷いこんだこともないではないが、そんな時には必ず「予言者」とよばれる人たちが出て、はげしい言葉で国民をいましめて正しい道につれもどした。
イスラエル人の信じたエホバは、きびしい正義の神だった。しかも、もしほかの神をおがまないで自分だけを信じるならば、かならずイスラエル人を助けて富と名誉をあたえることを約束しているように、その考えは地上的物質的で、またただイスラエル人だけのことを考えて他の民族はむしろ排斥する、心のせまい、そしておこりっぽい神だった。
ただ、そういう絶対的な神が、一方的に自分の命令を民におしつけないで、これを神と人との間の契約としているのはおもしろい。契約だから、微力な人間も時に神に対して抗議し、神の考えを改めさせることができた。そこにヨーロッパの民主主義の出発点を見ることもできよう。」
「聖書物語」山室静著より
感想
>「古代ユダヤ人の生活態度は、政治的及び社会的革命が、やがて神の指導の許に行なわれるという観念によって隅々まで規定されていた」(古代ユダヤ教)としている。
旧約聖書にはそこらに「終わりの時」に「主」が現れて選民以外を滅ぼす事が書かれているからね。
因みに、ユダヤ人が選民だが、以前にも書いたが異邦人が神の国を受け継ぐような事が旧約聖書に書かれている(比喩で)ので、選民はクリスチャンという事になっているのかな。キリスト教については門外漢なのでよく知らない。個人的には、クリスチャンでもない(洗礼も受けていない)イエスの再臨を信じる人が勝手に携挙で浮かび上がると思っているが。ただし、義人が条件だと思われる。
>絶対の神エホバ(正しくはヤーヴェという)
正しくはYHWHとかYHVHとかで発音はなかったんじゃなかったっけ。神聖4文字とかテトラグラマトンとか。因みに、私は昔から「ヤハウェ」派。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A7
>またただイスラエル人だけのことを考えて他の民族はむしろ排斥する、心のせまい、そしておこりっぽい神だった。
イエスでさえ、ユダヤ人だけを選民と思っていたようだからね。
「24.するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
25.しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。
26.イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
27.すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
28.そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。」
「マタイによる福音書」第15章24節~28節
また、旧約聖書の「主」は「ねたむ神」であり、「終わりの時」に再臨するイエスは間違いなく「主」であるが、心が狭いのは確実だが次元の違う話で現在の時点ではとても読み切れない。(心が狭いのも「神の計画」かと思われる。)
「あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。出エジプト34:14」
「あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。申命記4:24」
「私と話していた御使いは私に言った。「叫んで言え。万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。』」ゼカリヤ1:14」
>ただ、そういう絶対的な神が、一方的に自分の命令を民におしつけないで、これを神と人との間の契約としているのはおもしろい。契約だから、微力な人間も時に神に対して抗議し、神の考えを改めさせることができた。
まさに、「マタイによる福音書」のこの女性の信仰心が「契約」で「神の考えを改めさせた」のではないだろうか。(自我を捨て子供のような素直な心か。「マタイによる福音書」第18章1節~5節)
おまけ