参考資料947 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

オリーブ山の説話
「申しわけないが、もう一度だけ過去に飛んで、本書で何度も述べたことについての記憶を確かめてもらいたい。
 オリーブ山上で弟子たちがイエスに尋ねた三つの問いと、イエスの答えを覚えていると思う。《そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られるとき、世の終わる時には、どんなしるしがあるのですか》という問いだった。イエスは『旧約聖書』の予言者ダニエルの言葉を使って答えた。
 まず、エルサレムは異邦人によって踏み荒らされ、異邦人の時が満ちるまで建てなおされることはない、と答えている。イエスがこう答えたとき、すでにエルサレムは異邦人によって踏み荒らされていたわけだから、その状態がいつまでつづくかを答えたのである。
 さらにイエスは、彼の時代より先、未来に起こることをこう語っている。

 予言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら―――読む者は悟れ―――そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。
マタイによる福音書 24章15節

 異邦人の“時”とは、“ユダの家”に与えられた“七倍罰”の期間を表わすという、すでに何度も述べてきた事実や、予言研究者ならだれでも認めている事実にはいつまでもこだわりたくない。しかし、この“七倍”とは二千五百二十年の期間を表わし、ユダヤ人がネブカドネザル王の捕囚となったときにはじまり、その二千五百二十年後、予言されたとおり正確に、1917年という重要な年に終わったことを、もう一度思い出していただこう。
 どうかこの1917年という年に注目してほしい。じつはこの年には、本書のまだどこでもふれたことのないほどきわめて深い意味が、たいへんな予言的意味があるのだから。」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(下)」ヴィクター・ダンスタン著・幸島研次訳より

感想
>すでに何度も述べてきた事実や、予言研究者ならだれでも認めている事実にはいつまでもこだわりたくない。

イエスの言葉はそのまま天の父の言葉を述べているので、ダニエルについても天の父の意志だからダニエル書最終章の永遠の生命も真実とか、ダニエルは終わりの時に現れるようなのでミカエルがコーランで言う所のイーサー(イエス・キリスト)でダニエルがマフディの可能性があるとか述べてもいいが、ユダヤ教やキリスト教ではコーランなんか信じていないだろうし、イスラム教の方でもキリスト教徒は十字軍みたいな事を言っているのでイーサーの事なんか極一部の人しか知らないのだろうから、あまり同じ事を何度も述べても意味がないだろう。

「49.わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。
50.わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。」
「ヨハネによる福音書」第12章49節~50節

一応。http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-12116569588.html

>まず、エルサレムは異邦人によって踏み荒らされ、異邦人の時が満ちるまで建てなおされることはない、と答えている。イエスがこう答えたとき、すでにエルサレムは異邦人によって踏み荒らされていたわけだから、その状態がいつまでつづくかを答えたのである。

全く関係ないが、カミュの「異邦人」のお気に入りの部分を抜き書きする。

「司祭はかなり長いことわきを向いたままでいた。彼の姿が私には重荷になり、私をいらいらさせていた。私は彼にもう帰って、私をひとりにしてほしいといおうとしたが、そのとき、私の方を振り向きながら、不意に彼は大声で、あふれるようにしゃべり立てた。「いいや、私はあなたが信じられない。あなただってもう一つの生活を望むことがあったに違いない」もちろんだ。しかし、金持になったり、早く泳いだり、形の良い口許になることを望むのは、やはり意味のないことだ、と私は答えた。それは同じ世界に属することなのだ。しかし彼は私の言葉をとどめて、そのもう一つの生活というものをどういう風に考えているのかと尋ねた。そのとき、私は「この今の生活を思い出すような生活だ」と叫び、すぐに付け加えて、もう飽き飽きした、といった。彼はなお神について語りたがっていたが、私は彼の方に進んで行って、もう一度、自分には時間が残り少ないことを説明しようと試みた。私は神のことで時間をむだにしたくなかったのだ。彼は話題を変えようとして、自分のことを「ムッシュウ」と呼んで、「わが父」と呼ばないのは、なぜか、と尋ねた。それが私をいらいらさせた。あなたは、他のひとたちにはそうかも知れないが、私には父ではない、と答えた。
「いいや、わが子よ」と彼は私の肩に手を置いて、いった。「私はあなたとともにいます。しかし、あなたは心を盲いているから、それがわからないのです。私はあなたのために祈りましょう」
 そのとき、なぜか知らないが、私の内部で何かが裂けた。私は大口をあけてどなり出し、彼をののしり、祈りなどするなといい、消えてなくならなければ焼き殺すぞ、といった。私は法衣の襟くびをつかんだ。喜びと怒りのいり混じったおののきとともに、彼に向かって、心の底をぶちまけた。君はまさに自信満々の様子だ。そうではないか。しかし、その信念のどれをとっても、女の髪の毛一本の重さにも値しない。君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来たるべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕えていると同じだけ、私はこの真理をしっかり捕えている。私はかつて正しかったし、今なお正しい。いつも、私は正しいのだ。私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう。私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。そして、その後は? 私はまるで、あの瞬間、自分の正当さを証明されるあの夜明けを、ずうっと待ち続けていたようだった。何ものも何ものも重要ではなかった。そのわけを私は知っている。君もまたそのわけを知っている。これまでのあの虚妄の人生の営みの間じゅう、私の未来の底から、まだやって来ない年月を通じて、一つの暗い息吹が私の方へ立ち上ってくる。その暗い息吹がその道すじにおいて、私の生きる日々ほどには現実的とはいえない年月のうちに、私に差し出されるすべてのものを、等しなみにするのだ。他人の死、母の愛―――そんなものが何だろう。いわゆる神、ひとびとの選びとる生活、ひとびとの選ぶ宿命―――そんなものに何の意味があろう。ただ一つの宿命がこの私自身を選び、そして、君のように、私の兄弟といわれる、無数の特権あるひとびとを、私とともに、選ばなければならないのだから。君はわかっているのか、いったい君はわかっているのか? 誰でもが特権を持っているのだ。特権者しか、いはしないのだ。他のひとたちもまた、いつか処刑されるだろう。君もまた処刑されるだろう。人殺しとして告発され、その男が、母の埋葬に際して涙を流さなかったために処刑されたとしても、それは何の意味があろう? サラマノの犬には、その女房と同じ値うちがあるのだ。機械人形みたいな小柄な女も、マソンが結婚したパリ女と等しく、また、私と結婚したかったマリイと等しく、罪人なのだ。セレストはレエモンよりすぐれてはいるが、そのセレストと等しく、レエモンが私の仲間であろうと、それが何だろう? マリイが今日もう一人のムルソーに接吻を与えたとしても、それが何だろう? この死刑囚め、君はいったいわかっているのか。私の未来の底から・・・・こうしたすべてを叫びながら、私は息がつまってしまった。しかし、すでに司祭は私の手から引きはなされ、看守たちが私を脅かしていた。でも司祭は彼らをなだめ、一瞬黙って私を見た。その眼には涙があふれていた。彼は踵を返して、消え去った。」

現代ではムルソーみたいな人は増えていると思う。そういう人達を二極分化するのがマフディーの役割かもしれないね。(従来のキリスト教では相手にされないだろう。)

おまけ