参考資料838 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

「人類滅亡の黙示・神を怒らせた「ノアの方舟」の真相」の続き
「ところが、『旧約聖書』偽典「エチオピア語エノク書」は、神の子がどんな悪さをしたかを、ズバリと暴露している。彼らの悪さは、人間の若者たちのそれとまったく同じである。

「人の子らが数を増やしていくと、彼らに見目麗しい美人の娘たちが生まれた。
これを見た御使いたち、すなわち天の子たちは彼女らに魅せられ、
『さて、さて、あの人の子らの中からおのおの嫁を選び、子をもうけようではないか』
と、言いかわした。
彼らの中の筆頭たるシェミハザが言い出した。
『実は、あなたがたはこういうことが実行されるのをひょっとすると好まず、私だけがこのけしからん悪事のしりぬぐいをするはめになるのではないかと心配なのだ』
彼らは異口同音に答えた。
『この計画をふいにしないこと、これを確実に実行することを一緒にはっきりと誓い、誓いを破った者は仲間はずれにするとしよう』
そこで一同は誓いをたて、仲間はずれを罰とする誓いを結んだ。
そこで居合わせたのは合計二百人であった。(中略)
彼らの長たるシェミハザ、アラバキ、ラメエル、コカビエル、アキベエル、ダネル、バラクエル、アサエル、アルメルス、バトラエル、アナニエル、ザキエル、シャムシャエル、サルタエル、トゥルエル、ヨムヤエル、サハリエル。以上は二百人の御使いの首長たちであり、他はみなこれに従った」(第6章1~8節)

 こうして神の子たちは、こっそり人間の女と関係をもったのである。その結果、

「彼女らははらんで、背たけがいずれも三千キュビトというとてつもない巨人を生んだ」(第7章2節)

のである。

「彼(女)らは子としてネピリム(=ネフィリム)を産み、これがみな仲たがいをしてとも食いをし、エルババはネピル(原文ママ)を、ネピル(原文ママ)はエルヨを、エルヨは人類を、人類はお互いを殺しあった。
だれもが自分を悪に売り渡して暴虐を行ない、おびただしい血を流した。
地は暴虐に満ちた。
そのあと彼らは獣や鳥、すべて地上を歩き、うごめくものに対していやらしい罪を犯し、おびただしい血が地上に流れた。
すべての人間の思い、望むことは空しく、彼らは悪いことをたえず思っていた」(「ヨベル書」第7章22~24節)

 地上に人の悪が増すのを見て神は嘆いた。創造神を祝福し、父母を敬い、隣人同士愛し合い、いっさいの淫行、いっさいのけがれと暴虐から遠ざかる様子がないのを見て、神は地上に人を創ったことを後悔し、ついに決意した。

「私は人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。
人だけではなく、家畜も地を這うものも空の鳥も。
私はこれらを創ったことを後悔する」(「創世記」第6章7節)

 だが、神は、人や動植物を完全に絶滅させることを思いとどまった。
 高潔の人・ノアを選び、彼に方舟をつくらせ、命あるもの、肉なるもの、地を這うものから二つずつを選び出させ、それらを乗せて生き延びることを指示したのである。
 神は、なぜ、人や動植物の絶滅を思いとどまったのだろう?
「ヨベル書」に詳しく書かれているように、みずからの姿に似せて創った人間の堕落に、神の御使いである天使=神の子が積極的に関与していたからではないだろうか。神は、アダムとエバの悔い改めの姿勢にほだされ、セト以降の人類の繁栄を許した。だが、人間はすぐに堕落しはじめた。そんな人間の女の美しさに魅かれ、シェミハザを頭とする二百人の天使長たちが愚かな行為に走った。
 その結果、三種の巨人(ネピリム=ネフィリム、ネピル、エルヨ)が生まれた。人間のそれをはるかに超える巨人たちの堕落行為。それを目の当たりにして、神は、人間にのみ責任を押しつけることはできない、と判断されたにちがいない。
 神のこの情があったからこそ、知恵の木の実を食べ、失楽園したアダムとエバの子、兄弟殺しの罪を犯したカインの末裔である人類は、なんとかノアという一本の血を頼りに大洪水後の世界に、つまり、我々の世代に向かって生き延びることができたのである。」
「封印された【黒聖書】の真実」並木伸一郎著より

感想
これは明らかに作り話だね。
因みに、こういうのと同じで昔から作り話をするのが好きなんだろうね。
https://www.youtube.com/watch?v=EqSnArHS7pw(時間がない人は4:55~)
念のため、本当だと仮定して、牛肉の味に似せてるのか?まぁ、DNA鑑定でもすれば一発で分かるが。因みに、散々目撃例があるビッグフットの体毛もDNA鑑定をしたら一つも本物はなかった事が判明している。
http://takashi1016.com/yeti-3375
http://takashi1016.com/bigfoot-6464

>神は、なぜ、人や動植物の絶滅を思いとどまったのだろう?
>神は、人間にのみ責任を押しつけることはできない、と判断されたにちがいない。

全て「神の子」の責任だろう。親バカか。そんな神ならこっちから願い下げだね。

>神のこの情があったからこそ、知恵の木の実を食べ、失楽園したアダムとエバの子、兄弟殺しの罪を犯したカインの末裔である人類は、なんとかノアという一本の血を頼りに大洪水後の世界に、つまり、我々の世代に向かって生き延びることができたのである。

神に情があるとは思えないね。

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」
「マタイによる福音書」第7章21節~23節

「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」
「マタイによる福音書」第10章34節~39節

「十六世紀、キリスト教が伝えられて以来、日本では「神」や「救世主」の概念はひどく歪められた形で理解されてきた。多くの日本人は、漠然と「神」「救世主」とは私たち人間を不幸のドロ沼から救い出し、無限の愛で包んでくれる母のようなもの―――と思い込んでいる。救世主というものは「愛の力」によって私たちを戦争や貧困から救い出し、現在の平和と繁栄をいつまでも保ち続け、いつかは病気も戦争もない理想の人類社会を実現してくれる素晴らしい存在ということに相場が決まってしまっている。だが、本当の神というものは、そんなに人間に都合よくできてはいない。神は私たちに愛や安寧を一方的に送り続けてくれる「幸せ配達人」などではない。神とは私たち人間の意思や思惑を超えた絶対的存在であり、私たちとはまったく別の論理で動く、恐るべき存在なのだ。ときに神は私たち人類のケチな願望、思惑などまったく無視し、自分の造ったこの世界、宇宙を平然と精算し、また新しく造りなおすはかり知れない力を発揮される。しかもそれはきわめて無慈悲に行われる。本当の神は人間の意思、意向とはまったく無関係に動かれる場合があり、われわれとわれわれを取り巻くこの世界を滅亡させるということもされるのである。世の人びとは「今の平和を維持し、人類を核戦争の破滅の淵から救ってくれれば、それが救世主」と思いがちだ。しかし、そんな神様は本当の神様ではない。本当の神とは今の腐り果てた世界を、そのまま維持したりはしない。本当の神というものは、ときに人類の思惑、願いなどに聞く耳は持たず、この世界を破滅の淵に突き落とすこともされる。ある者を救うためには、ある者は滅ぼさねばならないのだ。つまり、この世を裁くことこそ本当の神の仕事なのである。本当の愛に満ちる者は、また激しく怒る者である。天地創造の神も同じだ。愛するゆえに怒るのである。長い間、農耕民族であり続けた私たち日本人は、共同体のなかで何ごとにつけても対立を忌避し、融和を重んじてきた。しかし融和を重んじるといえば聞こえはいいが、実際には原理、原則を無視したナアナア主義、無原則主義であった。そうである以上、私たち日本人の宗教観も、無原則なナアナア主義、あいまい主義に終始してきた。そのため、救世主の概念もひどくいいかげんで、あいまいである。だから前に書いたような、「何でもいいから、自分たち人間の都合のいいようにしてくれれば、それが救世主」というご都合主義的発想が、多くの人の頭を支配するようになるのだ。」
「666の大破滅」内藤正俊著より

おまけ