参考資料781 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

憎むべき荒廃をもたらすもの
「《憎むべき破壊者》は、どんな人物、あるいは現象なのかという問題に、予言者の託宣を解釈しようとする者たちは何百年も頭を悩ませていた。これほど論議をよんだ問題は、ほかには『黙示録』の“獣”(666)と“童貞たち”(14)の解明以外にあるまい。
 わたしの書庫には、1939年に書かれた魅力的な書物がおさめられている。同書は、《憎むべき》(Abomination)という単語を《国土上の爆弾》(A-BOMB-ON-NATION)と解釈して、この高度に思弁的な前提をもとに、当時スペイン内戦でしか活動していなかったナチス・ドイツの空軍戦力が、やがて英国に対し、その牙を向けるだろうと予言した。さらに、英国の《聖なる場所》はウエストミンスター寺院だから、ヒトラーは英国を侵略したのち、中央祭壇でわが国の降伏を受け入れるだろうと、著者は推理した。わたしには、この本の書名や著者名をあげる気はさらさらない。この勇み足をべつにすれば、ほかの点ではよく考えぬかれた論文だからだ。
 明らかにこの著者は、当時起こりつつあった重大事件にひどく怯えていた。そのため、すべての予言に対して行うべき厳しい吟味を怠ったのだ。予言はだれに語られたのか?予言が語られた時代、それを聞いた人びとにとって《聖なる場所》はどこだったか?答えは、前に見たように、《憎むべき破壊者》に関する予言の中にある。予言が与えられたのはユダヤ人たちで、当時かれらの《聖なる場所》はエルサレムの神殿内にあったのだ。
 おまけにわが著作家は、古典的な罠におちいった結果、現代の出来事を歴史の中で見るかわりに、偶然似かよった言葉を利用して、不合理で見当はずれの結論を引き出してしまった。もちろん、こんな誤りをおかしたのは、彼だけではない。似たような間違いをした著名な神学者の例を、わたしは知っている。
 ところで、実際には、《憎むべき破壊者》の正体を考える必要はないのだ。この言葉は文字どおり字義どおりの意味で、それ以上でもそれ以下でもないからだ。この言葉を深読みしようとせずに受けとるならば、《憎むべき破壊者》の正体は明白である。
《憎むべきもの》と訳されたヘブライ語は、シックツだ。その意味は、《厭わしいもの》である。ここでわれわれは、この言葉が語られた時代のユダヤ人の目を通して、これを解釈する必要がある。真相は、神殿のあった場所にユダヤ人や神殿以外の人間、建築物が立つことが《厭わしい》のである。その場所に立ったのがキリスト教界最大の聖人だったとしても、《厭わしく》、《憎むべきもの》と見なされたはずだ。
 解釈者の中には、セレウコス朝君主アンティオコス・エピファネス(在位紀元前175~163年)を《憎むべきもの》と考えるものもいる。この帝王は、祭壇にいけにえとして雌豚をささげ、至聖所に入った。たしかに、彼は憎むべきものではあるが、問題のそれではない。アンティオコス・エピファネスがふらちな行為を行ったのは、イエスの生まれる前だった。しかもイエスは《憎むべき・・・・を見たら》と言っているのだから、それは彼の時代から見て未来なのは明らかである。われわれは紀元後の世界を調べなければならないのだ。
 前に見たように、神殿はイエスの予言どおり、西暦70年にローマの将軍ティトゥスの手で破壊された。聖なる場所で戦闘が行われ、人の血が流された。疑いもなく、これはイエスの目には《厭わしいもの》、《憎むべきもの》と映っただろう。
 イエスの予言の正確な言葉を注意して読んでみよう。

 予言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら・・・・
マタイによる福音書 24章15節

 ここに謎を解く鍵がある。《立つ》という言葉は、原文のギリシア語ではヒステミとなっている。イエスはべつの場所でも、この言葉を使っている。《どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば立ってはいられない》(マタイによる福音書 12章25節)。
 明らかに家は立っているものだ。さもなければ、そもそも家とは言えない。しかし、この場合、立ちつづけられないという意味でこの単語が使われている。したがって、問題の憎むべきものをほかと分ける目印は、その憎むべきものが聖なる場所にずっと《とどまり(ヒステミ)つづける》ことだ。
 数ヵ月前、わたしは予言者ダニエルとイエスが言及した縦十五フィート、横三十フィートの場所から、数フィートと離れていないところに立っていた。そここそ、かつて《聖なる場所》と呼ばれた土地だ。わたしの頭上には“岩のドーム”がそびえている。やや不正確だが、ここはときに“ウマルのモスク”と呼ばれることもある。
“岩のドーム”は、まるで天佑によって建てられたかのように、千三百年以上も聖なる場所に立ちつづけている。イスラム教徒の内紛や十字軍やユダヤ人の憎しみや、1917年のイギリス軍によるエルサレム解放、1967年のユダヤ人のエルサレム占領、また最近のオーストラリア人狂信者の放火計画にも持ちこたえた。それは黄金色の天蓋を太陽の光にきらめかしつつ、予言された偉大な歴史の記念碑として立っている。」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(上)」ヴィクター・ダンスタン著・幸島研次訳より

感想
>これほど論議をよんだ問題は、ほかには『黙示録』の“獣”(666)と“童貞たち”(14)の解明以外にあるまい。

黙示録の獣が666である事は有名(第13章18節に出てくる)だが、なんだこの「童貞たち(14)」というのは。
多分、「ヨハネの黙示録」第14章に、

「なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人人が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。」

「彼らは、女にふれたことのない者である」と14章と14万4千人から取ったのだろう。
これを文章通りに受け取るのは如何なものかと思う。聖書の書かれた時代は、古いからね。例えば、「コリント人への第一の手紙」第6章9節,10節から、

「それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。」

とあるが、男だけしか書かれていない。女の同性愛については触れられていない。つまり、古いのである。
個人的には、「彼らは、女にふれたことのない者である」は比喩だと思っていて、「義」が基準になると考えている。
因みに、「ヨハネの黙示録」の他の比喩の例は、「女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して」(第12章17節)とあるが、女の産んだ子ではないだろうが、自分の子供のように書かれている。本当の子は救世主らしい。
(「彼らは、女にふれたことのない者である」が文章通りだとしても、もっと未来の「終わりの時」の子供の事だろう。)

補足:http://ichurch.me/gesewa/c_homosexual.html
「けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました」(使徒言行録10章28節)
引用元:http://ichurch.me/gesewa/c_homosexual-5.html#discrimination

おまけ