参考資料776 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

古代の予言者の時計
「時計が読みとれない大人はまずいない。しかし、だれでも生まれながらにして、それができるわけではない。時計のメッセージが読みとれるようになるには、最低限の予備知識と専門知識が必要だ。
 時計には、いくつか針がある。われわれはそれを区別しなければならない。“ユダの家”(ユダヤ人)と“イスラエルの家”の違いを認識してくれと、わたしが口を酸っぱくしていったのは、このためである。長針と短針の区別も知らずに、時計が読みとれるものだろうか。《一本の針は九時のところにあって、もう一本の針は十二時のところにある》というだけでは、不充分なのは明らかだ。これだけでは、時計が示しているのが、九時と十二時十五分前のどちらか見当がつかないからだ。まったく自明の事実ではないか。
 だとすれば、“予言者の時計”の針の名称に、とりわけ注意をはらう必要があるのも明白である。さもないと、多くの先人のように誤った解釈をして世をまどわすことになる。
 また同時に、古代の予言者の予言にふさわしい解釈法則を考慮する必要もある。ふつうの時計のように、予言時計でも、正確な目盛りの数字だけでは充分ではない。数字が正しい順序に並んでいなければならない。たとえば、数字の9はつねに盤上の同じ場所にある必要がある。
 それをいくら便利だからといって、時計の針を間違った位置にセットしてはならない。こんなことはあたり前だが、わたしの経験ではわかりきったことでも、言っておかないとあとあと面倒なことが多々あるものだ。時計の針をもどしたからといって、仕事に遅刻せずにすむものではない。時間は時間である。時計の針をいじくって進めようと遅らせようと、何ごとも解決しないし、何か得したり、事態が変わることはない。ただ、自分自身をあざむくだけのことだ。
 同様に、大いなる予言時計も、われわれが住む世界の歴史の記録装置にすぎない。時を告げてはくれるが、時間を創造するものではないのだ。
 こうした明々白々な事実にもかかわらず、古代の予言書の善意あふれた単純な解釈者たちは何世代にもわたって、かんばしくない事態を先送りし、喜ばしい事件の到来を早めようと、予言時計の盤面を変える方法を探しもとめた。一方、ヘロデ王のような邪悪な人間は、予言時計の進行を妨害しようとしたが、避けられない運命はどうしようもなかった。予言の時は、流れつづけたのである。」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(上)」ヴィクター・ダンスタン著・幸島研次訳より

感想
>それをいくら便利だからといって、時計の針を間違った位置にセットしてはならない。こんなことはあたり前だが、わたしの経験ではわかりきったことでも、言っておかないとあとあと面倒なことが多々あるものだ。時計の針をもどしたからといって、仕事に遅刻せずにすむものではない。時間は時間である。時計の針をいじくって進めようと遅らせようと、何ごとも解決しないし、何か得したり、事態が変わることはない。ただ、自分自身をあざむくだけのことだ。

因みに、私はイエス・キリストの述べた事を信仰する事は大事だと思っているが(念のため、鵜呑みにするのではなく自分でよく咀嚼した後に)、キリストの愛だとか言ってキリストに依存するのは間違いだと思っている。その証拠に、「マタイによる福音書」第7章21節~27節にこうある。

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。」

どうもキリストのために超能力などを使って信者を増やす者も出てくるようだが、そんな事は千年王国に入れる基準とは全く違うという事だろう。全体的には勉強や仕事に対して努力をしてしっかりとした地盤(信念)を作れという事だろう。因みに、「天にいますわが父の御旨」は同書第6章1節にある次の文章から。

「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。」

また5,6節から。
「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」

補足:http://www2.plala.or.jp/Arakawa/petoro18.htm(一番下の「つまずくペトロ」という所。時間に余裕がある人は一番上の「つまずきを予告されたペトロ」も。)

おまけ