「参考資料293」の続き | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

参考資料293
「「これはすごい。ぞくぞくしてくるね。」私は思わず言った。「これはタントラ・ヴァジラヤーナ、オウムそのものじゃないか。」ここの文章は、先程書いたように挿入の形になっている。だから、今までの封印のように時代順の出来事と考えなくてもよいだろう。タントラは、私の場合シヴァ神が導き教えてくださったように、シャンバラの宗教であり修行法なのである。そのタントラに“四方からの風”というのがあるので、ヨハネが見たものと同じことを表わしていると考えていい。すなわち、タントラの世界では、四方から風が吹き込んできて、十字金剛が現われ、世界の創造が始まるとされている。この風は、シヴァ神の象徴であり、何かを変化させるという働きをするのだ。その風を引き止めているというのだから、変化が起こるのを止めているということになる。そして、文章から、変化が“地と海と木とをそこなう”ことであり、“神の僕の額に印を押してしまうまで”その変化が起こるのを止めておかなければならないのだということがわかる。そして、額の印―――それはオウムにあるではないか。そう、シャクティーパットだ。シャクティーパットは額から相手に霊的エネルギーを入れる技法であるが、そのエネルギーの根元はシヴァ神である。したがって、オウムでシャクティーパットを受けた人はすべて“額に神(シヴァ神)の印を押された”ということになるのだ。となると、オウムでのシャクティーパットが終了するまで、“地と海と木”とをそこなうような変化が起こらないとも受け取れるが、皆さんはどうお思いになるだろうか?では、“衣を小羊の血で洗い、それを白くした”というのはどういう意味か?小羊というのは、他の人々のために犠牲となる救済者の象徴であった。そして、衣が白いということが、真の宗教心を培っているとか、真の宗教に帰依しているという意味であることもすでに何回か出てきた。つまり、これは“救済者の血で浄化され、真の宗教心を培った”ということになる。ここで、オウムのシッシャや信徒であったなら、「血のイニシエーション」を思い出すことだろう。「血のイニシエーション」は救済を目指す私の血による浄化・ステージの引き上げだ。シャクティーパットと同様、これもオウムに存在していたことになる。では、「血のイニシエーション」を受けた人達はどんな幸福が約束されているかというと、『もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう』と言っている。これが現実的に単なる夢物語でないことは、オウムでは常識となっている。“飢え、かわきがなく炎暑におかされることもない”状態も、“すべての涙がなくなる(=苦悩がなくなる)”状態も実際に成就・解脱によって得られるのだ。そして、“いのちの水の泉”―――これは言うまでもなく、ツァンダリー(瞑想法の一種)がもたらす不死の甘露に他ならない。これらの見事な一致には驚かざるを得ない。シヴァ神が「今こそ『ヨハネの黙示録』を解読すべきときが来た」と言っておられるからには、私達も心してオウムへの示唆を読み取ろうではないか。」
「滅亡の日」麻原彰晃著より

感想
>また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。(参考資料293)

今まで誰も指摘したのを見た事がないが、「生ける神の印」と「生ける」が付いている意味が分からない。「主なる神の印」とかの方が良くない?また、「日の出る方」を極東の日本だと言う人に対して当時のイスラエルから見た東はイラクとかイランだと言う意見もあると思うが、ノストラダムスの予言詩を合わせると日本説の方が有力かな?
http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-10559004196.html
http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-10623879416.html

補足
「第五の御使が、ラッパを吹き鳴らした。するとわたしは、一つの星が天から地に落ちて来るのを見た。この星に、底知れぬ所の穴を開くかぎが与えられた。そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。すると、その穴から煙が大きな炉の煙のように立ちのぼり、その穴の煙で、太陽も空気も暗くなった。その煙の中から、いなごが地上に出てきたが、地のさそりが持っているような力が、彼らに与えられた。彼らは、地の草やすべての青草、またすべての木をそこなってはならないが、額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと、言い渡された。」
「ヨハネの黙示録」第9章1節~4節

おまけ