参考資料16の続き | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

真愛
「奥様とのことについて、後日、老師はつぎにように語っている。「家内の苦しむところは、人間として真の人間でなければ苦しまぬ尊い苦しみで、一言、どこが悪いか、無理をするな、医者に診断してもらっては、等といって見よ、せっかく、人間一生の間に、一度も行き当たらない仏に救われる尊い機会をメチャメチャにするではないか。あれが神か仏に頼ってみたが、それでも解決できない。自分にはなぜ真の心、真の親切がないのか、と自分のあさましさに、自分の身を殺そうとして、日に幾度か死を決したが、真の生命の叫びは、そのつど、生を呼び醒ましている。その尊い心を、やさしい一言で逆戻りさせては、何時の日に助かる時があるか。あれが可愛ければ可愛いほど、あれの心を統一させて、真の心を発見させねばならぬ。それにはおれの愛が純一無雑なものでなければならぬ。しかもその心の苦しみは、おれが幾度も苦しんでよく知っている。この苦しみに立ち到ったときこそ、人間の力の頼りなさと、自分の智恵も及ばぬ自分のふがいなさをまざまざと見ることができる。しかも信じていた自己、経験による自覚などというものが、何ほどの価も認められない、影のような頼りないものであることを知ることになる。死んでも死にきれぬ苦しみである。それは相対的な一切を離れた人間本来の真愛を求めているが故である。それにつけてもありがたいのは、(釈)宗演、素堂、松陰の諸師のことである。おれがこうした苦悩に直面した時、氷のような冷たさと、取りすがるすべもない壁立万仭(絶壁などが険しく壁のように立つ非常に深いところ)の峻厳さを示して下さったことである。それあって、ようやく生死二関を四度まで超えてきた。今まさに自分が師匠と同じ立場に立って、同様の道をとることができる。ありがたいことだ。しかしおれも家内の苦しみを寸分たがわず日夜味わうてきたよ。今にもいたわってやりたい、辛かろう、苦しかろうと、喉まで出ては熱鉄を呑む思いをして呑みこんできたものだ。おれとても生きている人間だ。人が痛ければ自分も痛いように、その苦しみを抱きしめて慰めてやりたいが、無為大道の一路は光明赫々と照り輝いて、肉親恩愛の我見の乗ずるを得しめなかったからだ」
ほとんど多くの人たちが、奥様のような考え方で生きているし、可愛がっていた美女のあまりのわがままに、誰だって怒るのが当然だと、奥様に共感するほどであろう。悪いのは、奥様の方ではなく、助けてもらっているはずの美女であり、逆恨みをした男であるはずである。梅路見鸞が、妻に気づいて欲しいことは、だいたい次のようなことである。この場合の奥様の善と悪についての考え方は、あくまでも私欲(自己保身)を中心にした価値観なのだ。そこには、我見(自己中心的なものの見方や考え方)があり、我執(自分だけの小さい考えにとらわれて離れられないこと)があった。世間は、我見や我執のぶつかり合い、せめぎ合いで成り立っているようなもので、だれもがそんなふうだから、我見や我執があることに気づくことさえもなかった。奥様の場合、自分に迷惑がかからない範囲内で、という条件付きでの可愛がり方なのである。そこに損得の発想があるのだ。人を愛する気持ちが、周囲の環境や相手の態度の変化によって変わるというのは、真の愛情ではなく、また条件付きの可愛がり方は真の親切心、真の心から出たものではない、と梅路見鸞は教えているのである。真の心とは良知のことである。」
「雀鬼と陽明」林田明大著より

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