坊さん「かんざし」買うを見た | hitonotoumadeのブログ

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60歳→65歳→ついに『75歳のブログ』

ペギー葉山といえば、「学生時代」や「ドレミの歌」を思い

浮かべるが、彼女の名前を国民的にしたのは、昭和34年に発

売した「南国土佐を後にして」だ。 ジャズ歌手が歌う民謡

入歌謡曲は新鮮だったが、自身は歌うのが嫌で最後まで抵抗

しまくっていた。

 

そもそも、この歌はペギーのために作られたものではなく、

戦時中に高知の「鯨部隊」の兵士たちが歌っていたものを、

昭和30年になって鈴木三重子がレコード化する。 彼女は、

この翌年、「愛ちゃんはお嫁に」で一世を風靡している。

「鯨部隊」とは、日中戦争時、」中国に駐屯していた第40師団歩兵隊第236連隊で、通称鯨部隊と呼ばれていた。野営のときなどに、焚火を囲み歌っていた。 レコード化した歌詞は、戦時下ではないので、一部変えている。

 

昭和33年、NHK高知放送局開局記念番組として「歌の広場」

の生放送の収録が行なわれた。 ゲストは、ペギー葉山だ。

局からは、高知で歌い継がれてきた「南国土佐を後にして」。

当初は、鈴木三重子に出演交渉していたがスケジュールが合

わず、ペギーに回ってきたのだ。

 

歌中の「よさこい節」を、江戸の町で流行らせたのは、あの

坂本龍馬だった。 江戸末期、料亭で酒が入ると必ず歌い出

し、即興で替え歌などもひろうしていたそうだ。 これが、

芸者衆に広がり江戸の巷に流れていった。

日露戦争勃発時には、♪ロシァ来い、ロシァ来い♪と歌わ

れていたとか。

また、はりまや橋辺りは高知の中心部で、江戸時代初期に

掛川から移住してきた山内家の家臣の住居が集まっていた。

 

この歌のルーツには3つの説が有り、有力な2つが、

①土佐の紅茶のはりまや橋で、坊さんかんざし買うを見た

    ➔これは、悲恋の物語

②「よさこい」は「夜さ来い」で、熱愛の物語   である。

 

司会の高橋圭三から励まされる。

『そんなに深刻に考えなくてもいいよ。 何も、こぶしコロコロじゃなくたって、ペギーの歌として歌えばいいんだよ。』

会場は大盛上がりで、♪よさこい♪のところになると大爆発。

手拍子打ったり、一緒に歌い出したり。 生放送画終わる頃

になると、各地のNHKに賛辞が殺到する。 発売枚数は優に

200万枚を超えていた。

 

私が生まれた代々木上原には、古賀政男の邸宅があった。

(今は、記念館)そに傍に、ペギー葉山(と、根上淳)の

家が有った。 特に、古賀政男邸は表通り沿いだったので、

何度も前を通っていた。 私にとっては大昔のことだ、

 

合田道人著 「昭和歌謡の謎」参照