タカシー辞書かしてー




午後三時。

隣の席の男子生徒がタカシの辞書に手を伸ばした。

タカシはプリントに目を落としたまま「いいよ~」とぼんやりした返事をした。




「わけわかんねえんだよな。品詞って何だよ。」

一人ごとを散々言った後しばらくして男子生徒の手がとまった。




「おい、タカシ・・なんでマーカーひいてんだよ。ピンクって!!わはは!」

教室の半分が顔を上げるほど騒がしくなった男子生徒は

体を反らせて笑い出した。

タカシはしまった!という表情でやめろよ!と叫び

おもむろに男子生徒の手から辞書を引き剥がした。

瞬間、辞書を繰って一ページをばりばりっと破いき大きく目を見開き迷わず

口の中にほうり込んだ。

じいっと視線を刺す逆の席の女子生徒がキャっと小さく飛んで身を硬くする。

タカシは周囲の唖然とする空気をかき混ぜるように立ちすくみそして口を動かしつづける。

「おい、うまいか??あはは、タカシすげーな!」「なになに?なんで食べたの?」

「どのページ??」乱雑な冷やかしが大きく重なるとき、英語の先生が教室に

戻ってきた。

「ビークワイエット!ワッツハプン、タカシか?なんで立てんだよ、そこ!なにを笑ってる?騒がしいぞ!

問題全部やらないと授業終わらないぞ?タカシなんだ話せ、何食ってんだよ」

タカシの様子は見るからに変だ。

「ああ、こいつ、LOVEってとこピンクで塗ってたんスよ!」10代の男子生徒は

くちびるに羽が生えたようにデリカシーがなかったのだった。




優しいティーチャーが教室に散らばる"ヒュー・ヒュー”を手で払いのけ

冗談まじりに「好きなひとでもいるんだろう。昔は辞書は読んだら食ったやついたんだぞーなあ、タカシ。」と声をかけた。




タカシはLOVEを飲み込んだあと、胸をはって大声で天井に向かってその項目を読み上げ始めた。

すると瞬く間に教室の中ににピンクのもやが立ち込め、

生徒たちが気づく前にタカシはピンクの元始になった。
海へ行こうよ。海が見たい。




彼女は言った。平日の雨の日。まだ月曜日の午前中、携帯から電話があった。

「いいけど、いつにする?今週は土曜日が東京出張だから、日曜日だと行けるよ。え?」

彼女は低い声で囁くように言った、違うよう今からだよ。




互いに少しの沈黙があって彼女が言った。「11:30に大通りの山田生命の前で。わたしの午前中最後のアポなの。」

じゃああとで。と僕が返事を返す前に電話は切れた。僕は急いで午後からの予定をキャンセルした。

時間迄は何も手につかず一時間前から待ち合わせの場所で、車内でラジオを聞いていた。

カーステレオからは少し前に流行ったバラードが流れてくる。遠く離れたあの子には僕の気持ちはとどかない。泣けないし笑えない。雨やまない。そうか、雨が降っている事と心の移ろいを重ねたんだな。などと関心していたら、窓ガラスをコツコツ叩く音が聴こえる。彼女だ。

「ごめんね、待った?」

少し湿ってつやつや光る前髪がいつもより長くまつげにかかっている。「いや、君こそ早かったね。急いだの?」「ううん、担当の人、朝休みだったから。今日、何時迄行けるの?」助手席に着いた彼女がハンカチで肩や腕の雨を落とす。「五時には社内戻りたいな。まぁ、少しはゆっくり出来るよね。君は?今日休み?」

「…うん。そんなとこ。窓開けて良い?」まだ夏の残りらしき雲が高く漂うのが遠くに見える。「雨、上がったね。空気がきれいになった気がする。」すう、と鼻から息を吸い込んで胸を反らす。「なんで、急に?」僕はさりげなく聞いたつもりだった。

「ふふふ。理由が要るの?」こっちを向いている。速度が上がって窓からの風が強くなる。

「まあ・・僕の所属している組織では、少なくとも、外出には理由が要る。」




「砂浜・・見れるかな。都会に近い海じゃ、難しいよね。」視線はまた、窓の向こう。

「なに?夏の忘れ物?まだ、花火とか、スイカ割りとかしないと夏が終わらないとでも言いたいのか?」

僕はあくまで機嫌がいい。まあわけを話すと長くなるが、そろそろ、と思っていたころに

連絡があるだけでうれしいものである。

「窮屈なのよ。何もかも。わかっていても、何度来ても。夏って。退屈・・・・。」

歯切れ悪くゆっくりとかみ締めるように話す。こんな話し方で仕事、うまくいってんのか?

仕事中の彼女が想像できない。前の職場では会釈するくらいだったから、道で偶然出会ったとき

本当の運命というのはこういうことじゃないかと思った。ただ、彼女はその時、僕だとは気づかなかったらしいが。

「あっ」

小さく叫ぶ先にコンビナートが見えてきた。やっぱり平日は忙しそうね・・と一人ごちて彼女は窓を閉めた。

「外の景色はもういいの?」僕の問いかけはもう聞こえていないようで、まっすぐ前を向いて黙ったのだった。




しばらく走って大きな橋を三本渡るころ、視線はやっぱり前のまま、彼女が小さい声でつぶやいた。

「思い出なんて、どうでもいいわ。それに、たくさんあってもどうせ覚えていないんだから。」

僕は少し経ってから返事をする事にした。

「そうかな?たくさん、いいところだけ、思っているほうが楽しいと思うな。」

会話はだいたい僕がとぎれさせているようで、海風が濃くなるころには

僕たちは何も言わなくなっていた。




「着いたよ。砂浜にも降りられるけど、どうする?」

短くありがとう、といってドアをあけて車を降りる。赤い橋の袂に車をとめた。

「ああ、私海に来たのね。日差しはまだ夏ね。」

うれしそうな彼女を見ると、僕のほうもとてもうれしくなってほほが緩む。うつむいてごまかすためにゆっくり歩いた。

橋の壁に手をかけて、まぶしい横顔が海の奥の雲を見た。

「雨が、また来るわ。まだ、夏だもの。たくさん降ったら良い。」

僕はこのまま会話を続けたいので、何も言わずにうなずいた。

太陽がゆっくりと傾きかけて地球を斜めから照らす。

僕たちは空と海をぼんやりと見つめ、それぞれの時間を影がほんの少し伸びるまで眺めていた。

それはとても長い時間だったようにも思うし、とても意味のあった事だったのだ。

少なくとも、僕の夏、としては。























その日は梅雨どきにもかかわらず雨なんか全く降るそぶりなどないようすで、空は青く青く広く気温はぐんぐんあがって昼の二時の体感温度は35℃ほどだった。例年にはない暑さのため氷アイスは飛ぶように売れ街中のコンビニエンスストア、スーパーからはスコンとなくなり夜帰宅途中のサラリーマンで見かけた人はいなかった。

俺もその一人だった。

暑さを溜め込んだ体はぼんやり熱く同じくゆらゆら熱を放つ地面を踏みしめる足の重いこと。
近所の弁当屋で弁当を買って家に帰る、いつものように、いつも通りに。夕方の風は少しずつ落ち着いて昼間より息がしやすいように思った。
昨日は徹夜で事務所に泊まり込んでしまったので家に帰るのは二日ぶりだ。彼女の家に行こうかとも思ったがそれすら余裕がなく仕方なく会社で仮眠をとった。夢の中で彼女が働き過ぎよ、と言う。
頭が朦朧としているせいか一日中流れ星がジリジリと燃えかすを落としながら仄暗い夜と朝の間の空に落ちて行く様子が思い浮かんで、その映像は幾度となく繰り返されおかげであっという間に今日の太陽は沈んでいった。

アパートの前まできたところで電話がなった。胸のポケットが閃光を放つ。

ああ、出ようかなと携帯の文字は嫁から、俺はピンと来た。ついにその時がきたようだ。

電話を切る前に部屋に入れず膝から崩れ落ちる。俺は息子が生まれた日のことをきっといつも生々しく思い出せる。遠い遠いきらきらした夜の事だった。
生温い気温と高揚した気持ちと裏腹にドアノブの、鉄の真っ白い冷たさと、宙ぶらりんな父性を持て余していた感情に素直になれた事とを。

ああ、こんな人間の誕生に俺自身が救われる事があるのだ。なんて勝手な人間なんだ、と思うと同時に今まで抱えた事の無い、たぶん呼ぶとしたら喜びだろう、気持ちが溢れてきて不安やあやふやな気分がぱあっと晴れた。本当に助かった。救われた、と強く思った。そして、俺はその日から息子と共に始める事が出来た。