海へ行こうよ。海が見たい。
彼女は言った。平日の雨の日。まだ月曜日の午前中、携帯から電話があった。
「いいけど、いつにする?今週は土曜日が東京出張だから、日曜日だと行けるよ。え?」
彼女は低い声で囁くように言った、違うよう今からだよ。
互いに少しの沈黙があって彼女が言った。「11:30に大通りの山田生命の前で。わたしの午前中最後のアポなの。」
じゃああとで。と僕が返事を返す前に電話は切れた。僕は急いで午後からの予定をキャンセルした。
時間迄は何も手につかず一時間前から待ち合わせの場所で、車内でラジオを聞いていた。
カーステレオからは少し前に流行ったバラードが流れてくる。遠く離れたあの子には僕の気持ちはとどかない。泣けないし笑えない。雨やまない。そうか、雨が降っている事と心の移ろいを重ねたんだな。などと関心していたら、窓ガラスをコツコツ叩く音が聴こえる。彼女だ。
「ごめんね、待った?」
少し湿ってつやつや光る前髪がいつもより長くまつげにかかっている。「いや、君こそ早かったね。急いだの?」「ううん、担当の人、朝休みだったから。今日、何時迄行けるの?」助手席に着いた彼女がハンカチで肩や腕の雨を落とす。「五時には社内戻りたいな。まぁ、少しはゆっくり出来るよね。君は?今日休み?」
「…うん。そんなとこ。窓開けて良い?」まだ夏の残りらしき雲が高く漂うのが遠くに見える。「雨、上がったね。空気がきれいになった気がする。」すう、と鼻から息を吸い込んで胸を反らす。「なんで、急に?」僕はさりげなく聞いたつもりだった。
「ふふふ。理由が要るの?」こっちを向いている。速度が上がって窓からの風が強くなる。
「まあ・・僕の所属している組織では、少なくとも、外出には理由が要る。」
「砂浜・・見れるかな。都会に近い海じゃ、難しいよね。」視線はまた、窓の向こう。
「なに?夏の忘れ物?まだ、花火とか、スイカ割りとかしないと夏が終わらないとでも言いたいのか?」
僕はあくまで機嫌がいい。まあわけを話すと長くなるが、そろそろ、と思っていたころに
連絡があるだけでうれしいものである。
「窮屈なのよ。何もかも。わかっていても、何度来ても。夏って。退屈・・・・。」
歯切れ悪くゆっくりとかみ締めるように話す。こんな話し方で仕事、うまくいってんのか?
仕事中の彼女が想像できない。前の職場では会釈するくらいだったから、道で偶然出会ったとき
本当の運命というのはこういうことじゃないかと思った。ただ、彼女はその時、僕だとは気づかなかったらしいが。
「あっ」
小さく叫ぶ先にコンビナートが見えてきた。やっぱり平日は忙しそうね・・と一人ごちて彼女は窓を閉めた。
「外の景色はもういいの?」僕の問いかけはもう聞こえていないようで、まっすぐ前を向いて黙ったのだった。
しばらく走って大きな橋を三本渡るころ、視線はやっぱり前のまま、彼女が小さい声でつぶやいた。
「思い出なんて、どうでもいいわ。それに、たくさんあってもどうせ覚えていないんだから。」
僕は少し経ってから返事をする事にした。
「そうかな?たくさん、いいところだけ、思っているほうが楽しいと思うな。」
会話はだいたい僕がとぎれさせているようで、海風が濃くなるころには
僕たちは何も言わなくなっていた。
「着いたよ。砂浜にも降りられるけど、どうする?」
短くありがとう、といってドアをあけて車を降りる。赤い橋の袂に車をとめた。
「ああ、私海に来たのね。日差しはまだ夏ね。」
うれしそうな彼女を見ると、僕のほうもとてもうれしくなってほほが緩む。うつむいてごまかすためにゆっくり歩いた。
橋の壁に手をかけて、まぶしい横顔が海の奥の雲を見た。
「雨が、また来るわ。まだ、夏だもの。たくさん降ったら良い。」
僕はこのまま会話を続けたいので、何も言わずにうなずいた。
太陽がゆっくりと傾きかけて地球を斜めから照らす。
僕たちは空と海をぼんやりと見つめ、それぞれの時間を影がほんの少し伸びるまで眺めていた。
それはとても長い時間だったようにも思うし、とても意味のあった事だったのだ。
少なくとも、僕の夏、としては。