湿気た木の扉を押すとドアの上の方についている木の枝のようなものがぶつかり、
カラカラカラといった。

目の端に飛び込む赤い絨毯は、
扉の全体世界の雰囲気とはちょっとそぐわない、
浮いた軽い色をしていた。

扉のそばに男が椅子に腰掛けて居る。
音に気づいて、
覗き込んでいた小汚いルーペから顔を上げると、
トレース台の光が、顎ヒゲを下から照らした。

「すみません…写真、撮っていただけますか。」女はグレーのセーターに膝丈のスカート、足元はローヒールの黒いエナメルの靴を履いている。

「はい。こちらにおすわり下さい。料金の説明、しましょうか?何枚撮りましょう。」

初老の男は、腰をあげ、ゆっくりとこちらに向かって来た。
椅子から立ち上がると男の身長は、女と変わりない。男の移動に合わせて廊下がコロコロと鳴った。背中のまがった男の視線は床に落ちたままだ。

女は目が慣れてくると、
薄暗い部屋の中の奥行が長い事に
気がついた。
程よい湿気と独特の匂いがきちんとそこの空間に、ずっと前からそうであるように配置されている。

男が顔をあげ、何か言いかけたタイミングで、女は男に強い視線を向け言った。

「わたしにある…愛を撮っていただきたいのですが…」

伝えると男は驚くかわりに視線をくるくるさせて、軽く頷き、続きを話すものだから、女は気持ちがだいぶと楽になった気がした。

「分かりました。あるカプセルを飲んで下さい。吐息が色ついて出ますから。すぐですよ」
男は鼻眼鏡で女を見上げだあと、背を向けてそばの戸棚へ手を伸ばした。

「あと、あちら側へ引っ張られてしまう可能性が、無いわけでは無いので、その時は移動せず、もといた場所へ戻るようにしてください。」

「はい、そこ、その線のところにまで下がってカメラの、そう。」

雑な指示に戸惑いながらカメラの前に立つと、
気配なく後ろに居た男の手のひらから、
ピンクのカプセルが女の薄い手のひらへ与えられた。

「見た目はピンクだが」
男は水を入れたコップを女に差し出して付け加えた。
「吐く息も、ピンクとは限らんからな。よくある事ですよ。」口の端がぐいっと引きつるしぐさがたぶん、彼の笑顔らしかった。

「こんなに早く、これをいただけると思っていなかったの…何か、伝えておくことがありますでしょうか。」
話に聞くよりはすんなり、目当てのものが手にはいった。
女の声は驚き、弱く震えているようだった。肩が緊張している。

「そうだな」男は顎のヒゲに手をやりながら、機械的に言うのだった。

「他のやり方では時間がかかる。ひとまず写真を撮ってみようか。効果は個人差があるがな。ほれ、それ飲んで。」女がやっと、ピンクのそれを飲みこむ。甘い匂いがフン、と鼻を抜ける。

「個人差…ですか。なにか投影に不理な事があるのでしょうか…。」とにかく女は知りたがった。

「そりゃああるさ。寂しさ。不安。自己欺瞞。
どれもそれっぽくみえて現れやすいだろう。どれ。」

男はのそのそと移動し、カメラの前に座って、布の中に入った。

「こりゃ、期待出来るわ。
あんた、ラッキーだよ。」
男の声はこもって聞き取りにくくなったが、多少浮かれているようだ。
はーい、そろそろいくよ、リラックスして~!と声がして、
大きなフラッシュ音がした。
鈍い痛みに包まれてしばし刺すような寒さに耐える。感覚が無くなっていく手脚はこの世と境目が曖昧になるようで、心地よくもあった。手は人差し指から。足は小指から。しびれがおさまるとぼわっと広がって痛みが伝わる。

許して欲しいならまず誰か、許すべきなのか。もう、会えない人間を許すことは、この寒さでもしっかり違和感として胸に波打つ。誰にも許されず、誰も許さず、憎しみと怒りのエネルギーだけでここまできた。

コートのポケットを振って剃刀が触れ合う音に安堵する。正しさを捨てられないまま、安全で暖かい何日も、心底の癒しはもたらせなかった。与えるばかり与えて去る者は同情ではなく嫌悪ばかり吐いた。響く言葉に出会うことなく俺の存在はどんどんと消えて行く。

もはや拳さえ握れぬ塊をねじってスキットルを口元へ運ぶ。

石が敷き詰められたしめった地面に鋭い冷気が靴を超えてくる。足元を、遠くの街灯が鈍く艶をだす。

「雪も降らねえ…寒いだけじゃねぇか。」

この夜が明けて目の前の重い扉が開くと、この悪夢も終わる。そして俺は俺が死んだことを知る。

タバコの煙が白いのか、吐く息が白いのか、長い間まとわりついて居るのを見ないように空虚を探した。




うちの家にはなんか、おる。





昔からそうやった。守口の大きい家ん時も、引越しするたびに家が小さなるんと反比例してお父ちゃんの酒量がふえてって、逃げ出すように下宿した大学の近くの家にも、今住んでるこれまた越してきた新しい家にも、なんか、おるんやった。



特に、小さい頃はもっとわかったんやけど、今は家がほんまにがらんとしてる時にやないとわからへん。



守口んときは、お手伝いさんとお母ちゃんが入れ違うとき、居間におったらしらんおっちゃんがぼうっとつったっとって不思議に思ったのを覚えてる。そのおっちゃんは別に怖いこと無くてただそこにおるんやった。たまに勝手にうちのお菓子を戸棚から盗もうとして、怒ったらごめんごめんってな感じで手をひらひらさせてどっかいくんやった。お姉におかし食べられそうになるって相談したら、お姉はおっちゃんはしらんけど、おばあちゃんがにこにここっち見てるわー、ってよう言うてたなぁ。おばあちゃんは、お姉にお菓子なにが好きや、言うて聞いてくるけど、それをくれたことはなかったって、お姉が怒っとった。



そのあとすぐ越した家は新しいわりに日当たりが悪くて、なんか居心地が悪かったんを覚えてる。そん時は二階やって、下着泥棒がよく隣の部屋のお姉さんのブラジャーを盗んどった。一回うちがおるんを知らん泥棒がうちんちの洗濯物を物色していたのをこっそり見つけた事があった。お母ちゃんのおっきいパンツを見るなりなんやここはおっさんばっかりかいな!言うてどっかいったんやった。お母ちゃんにそれ言うたら、もう雑巾にできるくらいやから持って帰ってもろてもかめへんのに!って言って取り込んだパンツを持って風呂に入ってったから、お母ちゃんのパンツは雑巾なんやなって思った。あとから聞いたけど隣の部屋にはおっさんしかおらんかったらしいから、街におるおっさんはピンクのブラジャーしてるもんやとばっかり思って、当時担任やった先生に、今日はブラジャーしてないん?って聞いてもうて、職員室に連れて行かれた事も思い出した。



そのあと高校出るまでに2•3回引越しした。その期間、どの家やったかおぼろげやけど、雨の日に何度か、外の公衆電話で髪の長い女の人が電話してるんを見かける事があった。話し声が聞こえるんやけど、何言うてるかまではわからへんくて、5・6m、あるいはそれ以上離れてるのにいっつもぼそぼそ、ぼそぼそ、なんや言うてるなあ、と気になる。

ある雨の夜、いつものそれが始まったから、牛乳をのみながらカーテンの隙間から覗いてみると、一瞬女の人が振り向いたように見えて慌ててその場を離れようと立ち上がった。そのタイミングで玄関のチャイムが鳴ったから、まあ、しゃあないな、ということで通話を押すと、雨の音が大きい音で聞こえて来て、部屋の中が水で溢れ返ったみたいでびっくりしたことがあった。今よう考えたら、ぼそぼそ聞こえてたんはベランダの葉っぱに水しぶきが当たっただけやったん違うかな。



酒乱と化する父親の暴力に逃げるように母親と住み出した大学の近所のアパートは、母親が別の男と暮らし出した頃、入れ替わるタイミングでそん時の彼氏と住み始めた。アルバイト先で知り合うた二個上のその人は、おんなじ大学の経営学部の人で、もう二浪してあとが無いっていう割にバイト先のスーパーで主任になっていた。あまりに夢中で仕事をするから、バイト先と大学やったら、とりあえず大学行った方がええんと違うのって心配半分お節介半分で言ってみた。そしたらその人は、うちが学生やからそんなん思うんや、入って来んといてんか、言うてものすごい怒らはった。そん時は仕事って、大変なんやなぁ思ってそれからなんもいわんくなったけど、別になんも大変やなくて、大変なんは女と同棲してるともしらんと律儀に二浪の息子に仕送りしてくるその人の親の事やろう。仕送りも何もないうちにはピンと来ん話やったけど。



その後卒業してしばらく就職先の工務店もそっから通った。スーパーの人はパートのおばちゃんに喰われたからそのままどうぞ、どうぞと差し上げてやった。



工務店で事務しながら夜はクラブで水割りをかき混ぜおじさんたちの子育てしなかった自慢や昔はもてとったとかいう初めて聞くグリム童話を聴きながら500万貯めた。

もうちょっという時に、やっと同い年の彼氏が出来て、大学生らしく昼にデートをたくさんするようになった。

その彼氏は実家住まいでうちのアパートには絶対泊まらへん人やったから、帰った後の寂しさで気が狂いそうになった。そん時もまた誰かふっとやってきて、駆け足で去ってゆくんやった。トントントン、と軽い感じでかけて行くのに、とどまる時があったから、お茶を入れるついでにその子の分も入れてやったら、しばらくおって気が済んだんかして消えて流れていかはった。うちはぼんやりあれ、コーヒーのほうが良かったんかして、なんて思ったり、寂しいのんも悪くないんかもなって初めて思えたんやった。



それからその人と結婚して今の家に落ち着いた。もう誰かわからん存在にお茶を出したりすることは無いねんけど、西日がさすリビングの角の小さい和室コーナーに、特に日曜はまたなんか来てくれてはって、くつろいでるみたいやった。

誰かはまたわからんのやけど、二人組かが穏やかに話してはるんをうちは眺めたり知らんぷりしたりして夜がやってくるんを待つんやった。うちは結構、今そのとくとくと過ぎたり戻ったりする、西日の時間が一番好きやねん。今までこんなうっとりと過ごしたことってなかったなぁと、これまでの寂しい気持ちをぎゅっとして、ぼんやり遠く、思うんやった。