「椎名へきる」と青春の日々 | ヒトデ大石のなんとなくレポート置場

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2011年8月「ヒトデ大石のどんなブログにしようか検討中。」からタイトル変更。
ライブイベント、舞台観劇のレポートを中心に書いていこうというブログ。
以前はmixiが主戦場だったけど、今はこっちが主戦場(笑)

・「椎名へきる」と青春の日々(「HEKIRU MAX!! 2025 椎名へきるの全てがここにある」を振り返りながら)
 
椎名へきる
 
アニメ、声優に詳しい方なら、一度くらいは耳にした事のある名前だろう。
 
それくらい説明不要な有名声優にして、歌手だと思っている。
 
自分はそんな彼女の大ファンだった。
 
 
今から30年前、それとなく聴き始めたラジオ番組。
特徴的な高音が気になる、ちょっと面白い娘……それが初めて椎名へきるに抱いた感想だった。
 
最初は気にしていなかったが、ラジオから流れる彼女の楽曲、本人のビジュアルを知り徐々に気になり始めた頃、「目を覚ませ、男なら」で、まさに椎名へきるのファンとして目覚めた。

そして高校3年、1996年夏……彼女のライブに初めて足を運ぶ事になる。
 
詳細は省くが、この時同行した当時の高校の同級生、文通相手らが中心となり、あれよあれよという間に所謂「親衛隊」のような、私設応援団体が組織として出来上がった。
 
椎名へきる私設応援会 紺碧ヒトデの会
 
当時、若干17歳の初心者ファンが情熱と勢いだけで立ち上げた会だった。
 
そんな会が29年の時を経て、日の目を浴びる事になろうとは……この時は想像できるはずもなかった。
 
 
話を現在に戻す。
 
2025年8月15~17日の三日間、池袋にて「HEKIRU MAX!! 2025 椎名へきるの全てがここにある」というイベントが開催された。

椎名へきるの歌手デビュー30周年を祝う一連のイベント企画……その締めくくりがこのイベントにあたる。
 
自分は(主に)二日目にあたる16日は丸一日、堪能させてもらいました。
 
まず堪能したのは、過去のライブ上映コーナー。
 
 
この日の1本目は1997年冬の日本武道館。
椎名へきるが初めて武道館に立った記念すべきライブ。
 
当時、大学受験に失敗し浪人が決まった直後にも関わらず、高校時代最後の思い出と称して向かった武道館。
 
「紺碧ヒトデの会」は、自前のハッピがまだ無い時代だった。
 
それでも当時、会の成長速度はすさまじく、この時で会員の数は累計100人を超えた。
その勢いのまま臨んだ、日本武道館2DAYS。
 
最高に楽しかったし、椎名へきるを応援している事が何よりも誇らしい瞬間だった。
 
 
そんな当時の思い出が脳裏に甦ってきた。
当時の勢いそのままにクラップもコールも、汗だくになりながらやってきた。
 
28年前の映像を前にしても「色褪せない瞬間」が、そこには凝縮されていた。
 
 
過去のライブ上映コーナー2本目までの間に、二つ目の目玉ともいえる展示コーナーを拝見した。
 
椎名へきるの過去のライブでの衣装や、ファンクラブの会報のバックナンバー、レアグッズの現物、そして映像での紹介……これだけでもファンにとっては嬉しいものだっただろう。
 
そんな展示コーナーの一角……そこを過去の私設応援団体の展示物が占めていた。

縁あって「紺碧ヒトデの会」そして我々と最も親しく先輩団体だった「関東碧流会」の品々が展示してもらいました。
ハッピや横断幕が並ぶ光景は、改めて見ると迫力があるものだった。
更に前日には、同じく我々と近しい関係だった「PHOENIX」の会員が現れ、ハッピを貸し出してくれたとの事。



同じ時代を共に駆け抜けた仲間たちのハッピが並んでいる光景は嬉しかった。
それと同時にここに展示物が並ぶ事が無かった多くの私設応援団体にも思いを馳せた。
 
 
……当時を振り返る。
 
「紺碧ヒトデの会」は結成時期からすると、私設応援団体の中でも比較的後発になる。
我々が結成されるより前に多くの私設応援団体が存在し、ハッピを着込んでライブ会場を盛り上げて闊歩していた。
そんな先輩団体の多くは、我々が自前のハッピを手にする1997年夏頃には解散していた。
 
先輩にあたる団体が解散していくのを目の当たりにして、我々は会を存続していく術を模索していった。
ライブツアーが無い時期でも、数ヶ月に一度、会員たちが顔を合わせる機会として会合を設けるようにした。
会合……と言っても堅苦しいものではなく、時期によって花見、BBQ、ボーリング大会などを開催した。
今みたいにSNSどころかインターネットの文化も根付く前で、携帯電話やPHSの普及が追い付いていない時代に、会報を郵送で送るという手段と、会員同士が直接交流する機会を持つことを中心に会としてのモチベーションを保ち続ける。
 
今よりも連絡を取るには、よっぽど不便な時代。
だけど情熱と工夫だけで、その不便さすら乗り越えるための努力をした。
展示された会報には、そんな当時の情熱と工夫、そして努力の一端がにじみ出ていた。
 
我々が情熱をたぎらせる一方で、98年以降になると私設応援団体の数は更に減った。
また当時は我々と親しくしてくれる方も多くいた一方で、私設応援団体という存在そのものが敬遠される事も多かったのを覚えている。
詳細は控えますが、当会の存続危機があったのもこの時期だったと記憶している。
 
だからこの頃は決して楽しい思い出だけで語れる時期でなかった。
 
それでも99年を経て2000年から2001年、世紀をまたぐカウントダウンライブを「関東碧流会」「PHOENIX」のメンバーらと共に喜んで迎える事が出来た。
この頃になると「紺碧ヒトデの会」だけではない、団体の垣根を超えた友情も育まれた時期でもあった。
 
しかし……時の流れというものは残酷で、当時学生が中心だった「紺碧ヒトデの会」は徐々に会場に顔を出す会員が減っていった。
元々98年夏頃から新たな仲間を迎える機会より、各々の事情で離れていく仲間を見送る事の方が増えていった。
実際、現在も付き合いのある会員の多くのほとんどはこの頃までに入会した者がほとんどであり、むしろそれまでが爆発的に増え過ぎていた部分がある。
 
離れていく仲間の事情は様々であり、残念ながらこの時期に椎名へきるのファンを離れた者もいれば、我々のやり方についていけなくなり離れた会員も存在した。
それと同じくらいに就職、進学などで人生において次のステージに進む者が多く現れた。
 
恐らく当会だけの問題では無かったと思うが、結成当初から会員の多くが学生中心、20歳前後の若年層の割合が多くを占めた当会はその傾向が顕著だった。
 
そして自分自身も他の趣味への傾倒と合わせて、就職活動中の2001年、就職した2002年と徐々に椎名へきるのライブに足を運ぶ回数が減った。
特に就職後は時間があった学生時代のように、南関東のライブ全て行く……というような事もなくなり、また椎名へきるに情熱を注げる余裕も当時の自分には残されていなかった。
 
記憶にある限り自分が最後にハッピを着てライブ会場に足を運んだのは、2003年元日。
この頃には椎名へきるの音源を買わなくなり、彼女の情報にも疎くなり始めていた。
(でもこの時期の楽曲だと「MOTTOスイーツ」だけは例外的に印象に残っている。リリースを知ったのも結構後なのに……)
またこの時は前年に夭折した親交のあったファンに対する哀悼の意を示すために集まった側面も強かったかも知れない。
 
この時も我々「紺碧ヒトデの会」や親交のあったファン層とも交流し、社会人となり久々の再会を楽しんだ事を薄っすら覚えている。
だけど我々を含めても、この頃に会場内でハッピを着込んで応援するスタイルを取っていたのは少数だったと記憶している。
 
多くの私設応援団体が過去のものになっていく。
そんな時期だったのかも知れない。
 
今、振り返るなら、この時に自分の椎名へきるファンとしてのキャリアは第一線という意味では終えたと言っていい。
 
 
……展示コーナーでの談笑を経て、ライブ上映コーナーの開演が近づいてきた。
 
過去のライブ上映コーナー、この日の2本目が2004年元日に行われた公演である。
椎名へきる自身にとっては10周年記念ツアーの「ベスト公演」でもあった。
 
椎名へきるファンの一線を退いてから一年後の映像である。
 
だからこの日のライブの様子は完全に初見だった。
 
1曲目に「せつない笑顔」が流れた瞬間、自分が満面の笑みになるのが分かった。
 
当時の映像の中でも、既に椎名へきる自身が「懐かしい」と言及するくらいに、彼女の初期の楽曲が続いたのである。
 
もし当時、自分がこの日の会場にいたら、同じような感想を持っただろうか。
そんな事を考えつつも、この映像より更に21年経った現在においてでも、心の底から楽しんでいる自分がそこにいた。
 
1本目の97年武道館と見比べても同じ楽曲でもアレンジの違いや、また椎名へきる自身の楽曲に臨むスタンスの違いが映像を通じてでも伝わってきた。

こうして見比べてみて初めて認識する違いであるが、そのどちらも受け容れる事が出来た自分がそこにはいた。
 
そう……そこには自分が好きで仕方なかった椎名へきるの姿が、間違い無くそこにはあった。

 

当時、情熱を注げなかったとは言え、椎名へきるは何一つ変わっていない事を、20数年の時を経て初めて認識した瞬間だった。
 
この時、昔を思い出して開演前の前口上及び「古のコール」をしたり、最後は三本締めをしたけど、きっとあの時、そこには10代後半の椎名へきるが青春の中心だった頃の自分がそこに立っていた。
 
そう思う。
 
 
もっともこの時の前口上や「古のコール」が、自分史上、最大の大役につながるとはこの時想像しなかった訳で。
 
 
この後は夜から始まる、トークショー&アコースティックライブを残すのみだった。
この日のトークショーのゲストは木根尚登という事で、実はTM NETWORKも好きな自分としては、それだけで楽しみだった。
 
すると……知人を介して話が舞い込んできた。
 
事の詳細は省きますが、トークショー前に前口上と「古のコール」をやって欲しいというお話に。
どうやらライブ上映会でやった前口上及び「古のコール」が関係者の目に留まった模様。
 
前日に「関東碧流会」の総長が同じようなお願いをされて、前口上は実施したと聞いていましたが……。
 
話がきた時は驚きつつも、断る理由は無かったので、ありがたく引き受けさせて頂きました。
 
 
……という事で、トークショー&アコースティックライブの前、影ナレの紹介を経て「古のコール」をさせていただいた次第です。
 
 
本当にありがたい話でした。
 
 
前述の通り29年前……「椎名へきる」が好きという若者たちが中心になって結成された「紺碧ヒトデの会」
ただ……臆測も入る部分あるけど、当時の運営には我々のような「親衛隊」の流れを汲むような私設応援団体が決して好意的な目で見られていた自信は正直ない。
 
もっとも今なら当時の運営サイドの気持ちも分からないでもない。
当時の椎名へきるを取り巻く環境からすると、妥当な判断だったと思う次第です。
 
デビュー直後こそ「アイドル声優」としての側面が強かった彼女が「紺碧ヒトデの会」が結成された頃には、その路線から脱却しようとするところが節々に垣間見えた。
前述の先輩にあたる私設応援団体の解散の遠因もこの路線変更を受け容れられなかった……と、それとなく聞いた事もある。(実際は分かりませんが)
 
また椎名へきる自身も「アーティスト宣言」をした事で一部のアニメ、声優ファンからバッシングを受けた時期でもある。
 
この発言が彼女自身の意思だったのか、運営の方針だったのか分かりません。
ただ当時の椎名へきるが進もうとしていた方向性は、これまでに一般的に浸透していた「アイドル声優」のような位置づけではなかった事も、年2回のライブツアーの存在を通じてひしひしと伝わってきた。

実際、本職のアイドルにとっても「冬の時代」と言われていたような時代。

「アイドル」という肩書きに囚われたくなかった気持ちも、また「声優」という範疇にも収まりたくなかったという……当時の椎名へきるを取り巻く環境は物語っていた。そう思う。

 

※【8/20追記】他のファンの方から指摘を受けましたが「アーティスト宣言」については、椎名へきる自身、後年、雑誌のインタビューの中で発言していないと言及。「メディアへの肩書としてレコード会社がアーティストと表記したが、それが原因の一つじゃないだろうか」と語っているとの事です。

当時の彼女を取り巻く環境を現す表現として本文には残しますが、椎名へきる自身は発言していない点については追記させていただきます。

 

それを踏まえると、当時の運営サイドが求めたファン層に、我々私設応援団体の存在は合致しなかったのではないかと思う。
 
そのような状況の中、前口上の文化も「古のコール」もやがて廃れた。
少なくとも97年……もっとも遅い時期で98年頃までは実施していたが、これも当時の私設応援団体同士の申し合わせでしなくなったと記憶している。
ただこれについても当時は残念という感情よりは、当時の私設応援団体に置かれた状況からすると、悪い意味で目立つのを躊躇われた時期であり仕方ないという感情の方が強かったように思います。
 
 
……時を経て。
 
あの場でさせてもらった「古のコール」
ライブの前に士気を上げるなら、これしかないというコールでした。
 
当会が結成されてから間もない頃、当時は入場前の会場でどこかしこでこのコールを連発していた。
その際、当時の先輩の団体からは乱発せず、ここぞという時に使って欲しいとたしなめられたのをそれとなく覚えている。
 
……このコールこそ、自分たちより前に結成された先輩の私設応援団体から受け継いだレガシーの一つだった。
 
それを今、長い時を経て……解き放つ事となりました。
 
あの時、自分が20数年ぶりに発した「古のコール」は、僭越ながら椎名へきるを支えた全ての私設応援団体の想いを一身に背負って発したつもりです。
 
 
……幸いにも、この「古のコール」については、このブログを掲載した今日まで、好意的な声を多くいただいております。
ただ中にはかつての我々の存在を含めて、評価できない方もいたかも知れません。
もしそのような方がいたとしたら、今回の件、ご容赦いただきたい。
 
ただ……それでもあの場でこのような機会をいただいた事は感謝に耐えません。
 
 
今回、展示を含め、現在の運営サイドの関係者の皆様には好意的に接していただいた事、そしてこのような機会を与えてくれた事に感謝しかありません。

 
でもこのような機会に長い年月を経て我々が立ち会えたのは、自分が一線を離れた後も椎名へきるを支えた多くのファンの存在と、そしてそれに支えられて活動を今日まで続けてきた椎名へきるの存在があったからだと思います。
 
 
自分が椎名へきるのファンを第一線で活躍していた時期より、もうそうでない時期の方がかなり長くなりました。
 
前述の記憶通りなら2003年以降はライブには一度も足を運んでおりません。
昨年発売された「HARMONY STAR」で実に20数年ぶりに、椎名へきるのCDを購入したレベルです。
 
それでもレーベル移籍の報せや、舞台出演、アニメ出演の話も耳にするたび「椎名へきるは。今でも頑張っている」と思う事がたびたびありました。
 
でもその「今でも頑張っている」を、遠くに離れたかつてのファンたちにも届くくらいに長い間続けてくれたからこそ、我々もこの日を迎えられたと思っています。
 
 
いつか忘れましたが、椎名へきるがラジオ、もしくは雑誌のインタビュー上で「私は今、応援してくれているファンたちの青春の真っただ中にいる。そのためにも活動を頑張らないといけない」という趣旨の発言をしていたのを記憶しています。
 
その発言を彼女は今でもしっかり守っていると思います。
 
それが本当に嬉しかったです。
 
 
20数年ぶりに直に拝見する椎名へきるは、歳を経てもきれいなままでした。
 
木根尚登とのトークコーナーも、またその後のアコースティックライブも楽しみました。
過去のライブ上映とは違い、過去の思い出に頼らずとも、今の自分が目の前にいる椎名へきるを心の底から堪能していました。
 
20数年の時を超え、新たな椎名へきるの思い出を刻む事が出来ました。
 
 
もっともその翌日(最終日)も大役再び……になるとは思いませんでしたが。
 
出勤前につきトークコーナーだけ拝見しましたが、ゲストの富永みーなに名指しで御礼言われたのは、恐らく一生モノの自慢になりそうです。
そして自分が椎名へきるにハマるキッカケになったラジオ番組……「SOMETHING DREAMS マルチメディアカウントダウン」の限定復活は本当に素敵な企画でした。
 
 
思った以上に長々と語りました。

そして会を結成した当時からすると想像できない事ばかり、この二日間、自分の身に降りかかりました。
 
ただこうして自分が椎名へきるのファンの第一線を退いてから、ここまでしっかり当時の自分を交えながら振り返る機会もここまでありませんでした。
 
でも恐らくここを逃すと、もうきちんと当時の自分を、そして「紺碧ヒトデの会」そのものを振り返る機会がないと思ったのも確かです。
 
 
「紺碧ヒトデの会」は来年で結成30周年を迎えます。
 
そして現在も年に数回、会員たちが会っています。
しかし全盛期は100人を超える会員がいたものの、今でも連絡が取れるのは10数名。
 
結成当時と比べて格段に連絡手段は発達したのに、かつての仲間たちの多くの音信が分からなくなりました。
 
だけど今回の「HEKIRU MAX!! 2025」を通じて久々の再会もありました。
来年までに一人でも多くのかつての仲間と再び会える事を願っています。
 
 
最後になりますが……
 
かつて我々と共に同じ時間を駆け抜けた仲間たち
 
色々あったけど、椎名へきるを共に応援した私設応援団体の同志たち
 
そして椎名へきる及び関係者各位
 
関わった全ての皆様に感謝してこの長文を締めたいと思います。
 
 
あの日の自分と出会ってくれて、本当にありがとうございました。
 

 

「Want you!」

 

※追伸。

自分の中でもかなり昔の出来事を振り返っているので、誤ったり、抜けている記憶や記述も多々ある可能性もあります。

その点を踏まえて、本文を読んでいただけたなら幸いです。

 

※更に追伸。

「紺碧ヒトデの会」に在籍した事のある皆様、もしくは近親者や友人の方、また在籍はしていないけど我々と親しかった方の連絡をお待ちしています。