たとえば、東京大学(東大)卒の教師はとても少ない。
なぜなら東大に限らず旧帝国大学は全て、
「教育学者」を育てるための学府であって、「教員」育成機関ではないからだ。
なので「東京都の教員育成機関」は学芸大になる。
これは東京理科大学卒の連中が軒並み東大の大学院に進むのと同じで、
古い教育制度の名残だといえるが、それはさておき。
こんなものは知識の問題だから、知ってるか知らないかでしかない。
では今度は、考えればわかる簡単な話をしよう。
東大卒の教師が非常に少ないのに、東大合格者は毎年数千人も増える。
つまり「東大に合格するためには、東大卒の教師から教わる必要はない」。
すなわち、合格のためにトッププロや成功者から教わる必要はない、ともいえる。
あるいは「教える能力」で抜きん出ている人がいるとすれば、
その人が教えさえすればどんなバカでも賢くなれるはずだから、
この世からバカなんて消滅しているはずだが、実際はそうではない。
つまり「教える能力」なんてものはない。
最低限度、有害ないし迷惑、無駄ないし逆効果ではない方法を選べるかどうかという点で、
教えるテクニック自体は存在しているけれども。
かくして学力テストという意味での受験社会において一番重要なのは、
生徒各個人の才能や向学心であり、
あるいは凡才ながらもやる気を出すきっかけを得る幸運に恵まれたかどうかである。
受験に敗者がいる限り、教える側の能力よりも、教わる側の成長だけが問われている。
だから教師が東大卒じゃなくても生徒は東大に合格できるし、
親と環境のせいであることは多々あれど、
悪影響から脱却できたはずの年齢になってなお他人のせいにするのは、完全に間違っている。
悪影響の後遺症があったり、脱却できない理由があったりするケースもあるけどな。
秋葉原通り魔殺人の加藤なんて、母親に虐待されて心身が壊れた象徴的事例だったし。
いずれにせよ、教える側に必要な能力とはつまり、
やる気を出させること、知ることの楽しさを教えられること、
そいつが辛いときに決して見捨てず、逃げず、必ず一緒に立ち向かってやること。
教師なんてどんなバカでもいいんだよ、本人がやる気にさえなってくれれば。
恋心のために頑張れる女の子もワンサカいれば、
モテたいがためだけに頑張れる男の子だってワンサカいるんだから。
そして女に生まれた時点で男には絶対に勝てないスポーツと違って、
勉強は理論上、誰に対してでも平等だからな。
少なくとも欧米のように卒業生とのコネと推薦状が必須な階級社会の大学ではなく、
勉強さえできれば誰でも入れる日本の大学こそ、平等に門戸が開かれていて、
かつ過去問を解いて対策すれば受かりやすいようになっている。
努力さえできれば東大に入れる。
あとは自分の人生の何をどこまで犠牲にできるかの差、つまりやる気の差だ。
まあ、先天的資質の有無や性差(男>女)は明確にあるけどね・・・
野球でいうと長嶋茂雄が非常に有名だ。
ここぞという時に打つ打者として実に象徴的な選手だったが、
彼は努力こそ重ねたことでも知られているが本質はいわゆる「天才肌」であり、
打撃コーチとしては説明が曖昧すぎて無能どころではなかったことでも有名だ。
曰く「グッと構えてガーッと振ってガツーンと打ち抜くんだよ!」的な教え方をするそうで。
本人はそれで大打者として名を馳せたのだから、まあたぶん間違ってはいない。
だが他人に伝わるかどうかという点では無能どころの話ではない。
このようなケースを「名選手、必ずしも名監督ならず」などと言ったりもする。
同様に、頭がよすぎる人にとって理解とは呼吸と同義であり、
思考とは心臓の脈拍のようなもので、わざわざ何かをする必要がない。
努力とは二足歩行と同じで、それができなければ生きていけないものでしかない。
だから他人に説明するとき、相手のどこがわからないのかを理解できない。
アタマがよすぎて、理解に苦しんだことがないからだ。
すなわち天才とは、バカになれない無能の名である。
かくいう僕は医学理論の分類上(not自己評価)だといわゆる天才であり、
人類の上位0.001%に入る側でもある。
バカの感覚がわからないというより、その生き方は恥ずかしい難しいを通り越して「痛い」。
考えるのをやめようとすると酷い頭痛が起こる。
それも体温にして38度くらいの発熱を伴う頭痛が。
・・・これ、マジだからな?
僕の人生において一番最初に必要だったことは、
頭のレベルを下げ回転を止めることだったから、
未就学児扱いしてもらえる幼稚園児のうちに、瞑想のノウハウを習得せざるを得なかった。
まあつまり天才というもの、そのような生理機能を有する存在とは、
そうなりたくてそう生きてる動物のことではなく、
嫌でもそのようにしか生きられない動物のことなのだ。
Q:どうしてそんなにアタマがいいんですか?
A:「理解できない」ってどういう感覚なのかが、僕には理解できない。
・・・・・・僕から見れば普通の人の理解力って、
手を抜いてるようにしか見えなくて、
本当に頑張ってるのかが果てしなく疑わしいんだよな。
できて当たり前な人からすれば、できない人の気持ちなんか絶対にわからない。
美女にデブスの気持ちはわからないし、
マッチョにヒョロガリモヤシやクソザコナメクジの気持ちはわからない。
だからこそ確信できたことなのだが、
僕にとってここまでおよそ1900字はたいした文章量でも情報量でもないが、
普通の人にとって一文が50字を超える時点で理解に苦しむらしい。
それをどうにかして是正しようと思って、
140字制限のあるTwitterにひきこもって幾星霜。
3行でひとつの文意を区切るクセをつける努力も、アメブロで繰り返している。
気づいた人はいるかもしれないねw
僕はいつでも3行でひとつ区切る意識をしているとか、
意図的な悪文に躊躇をしないとか。
言文一致を心がけているから、体言止めの多用がよくなくてもやっちゃう。
でも一般的な文章表現として文頭の接続詞は必ず使うし、
それでも思考が打鍵(文字を打つ)より先にいっちゃうから文意も飛ぶ。
・・・そんな練習をしているアホ(!)を、僕はあんまり知らない。
アメブロの1記事20000字制限では到底足りないから、毎回文章を削るほうが辛い。
アタマがいい人間に生まれたかったという人はいつの時代も減らないが、
そんな苦労をやりたがるバカを聞いたことはないから、
まあ、やめておいたほうがいいよ。
天才同士は互いに異種だからな。
同じ分類上の天才同士でも、お互いの才能を理解することは不可能だ。
ただ唯一、お互いにマイノリティであったがゆえの苦労だけは、察するに余りある。
この記事で言いたいことは一つだけだ。
バカが賢くなるための道筋は教科書、参考書、資料集、問題集など無数にある。
あらゆる教本だの箴言だの処世術だの警句だのは、
未熟な人間のために、過去から未来へと継承されてきたものだ。
しかし天才がバカの水準に合わせて生きていくための方法論をまとめたものなんか、
この世のどこにもない。
それは同じ天才と呼ばれる人種同士でも、種別が異なるからだ。
将棋のうまいヤツも、野球のうまいヤツも、学力が高いヤツも、同じ天才だが異種だろう?
「あなた」には「お手本にできるもの」がたくさんあって「羨ましい」なって思うんだよ。
イヤミではなく、切実な話としてね。
優れている、ないしより模範的なほうに偏っているはずなのに、
生きてるだけで異物扱いされる悲しみや苦しみなんて、わからないほうが幸せだ。