藤原彰子は一条天皇の中宮となって、のちの後一条天皇と後朱雀天皇を生んだ。


そして父・藤原道長亡き後は、政界のゴッドマザーとして君臨した。


藤原彰子の生涯を詳しく見ていこう。


藤原彰子は988年永延2年、道長と倫子の長女として生まれた。


関白藤原道隆が逝去すると、道兼が後継者となったが、疫病のために急死する。


中関白家では道隆の後を受けて家督は、中宮定子の兄の伊周が継いだ。


しかし姉の東三条院詮子の引き立てで、道長が摂関政治最高の権力者となる。


だが一条天皇の中宮にはまだ伊周の妹・定子が存在していたため、伊周と道長の力は拮抗していた。


ところが伊周は、若さゆえにその争いの過程で花山法皇の袖に矢を射る不祥事をひきおこして、処罰され急速に中関白家は没落した。


伊周が大宰府へ流罪となると、ショックを受けた定子は一条天皇の子を身籠ったまま出家してしまう。


しかし定子を愛する一条天皇は、定子を僧籍のまま参内させて、内親王が誕生している。


そのため藤原道長は焦ったが、まだ我が娘・彰子は幼かったため、その成長を一日千秋の思いで待ったのである。


そしてついに、999年長保元年11月、12歳になった彰子が20歳の一条天皇のもとに入内する日が決定する。


時に、中宮定子は24歳であった。


道長は、踏み絵として強制的に公卿たちに屏風絵のための和歌を詠ませている。


そして彰子の花嫁道具の屏風絵に添えられた花山法皇や藤原公任の歌を、道長一家繁栄の瑞祥とした。


この時和歌の提出を拒んだのは、わずか藤原実資のみであった。


彰子のおつきの女房は40人、童6人、下仕6人、すべて 容姿・気立て・才色ともに選りすぐりであった。


まだ幼さを残した彰子だが、ふくよかで女性の気高さと優美さを持っていた。

彼女がまだ12歳で入内したころのことである。


ある夜、彰子のもとを訪れた一条天皇は笛を吹き、庭の外の闇を眺めている彰子に、「こっちをごらん」といった。


すると「笛は聞くもので、見るものではありません」と彰子はそのとき、こう答えたという。


「これはまた、幼い人に一本まいった」


20歳の青年天皇は、こういってさわやかに笑ったという。


彰子は気性のしっかりした、気立てのやさしい、 聡明な女性であったらしい。


道長は定子のサロンにも負けないように、彰子のもとに紫式部や和泉式部などの優れた女流文化人を集めた。


やがて紫式部の書いた「源氏物語」が宮中で評判となり、一条天皇も彰子のもとに顔を出すようになる。


ところで当時は中宮と皇后は、元来同じ人物を意味していた。


しかし道長は定子を皇后にして、彰子を無理矢理に中宮にするという強引な手法を用いている。


一方の定子は第一皇子敦康親王を身籠ったが、 実家を失い後見人を失っていたため、出産のために平生昌の屋敷に赴いた。


この時、公卿たちはみな道長に遠慮して供する者はわずか三人であったという。


生昌の屋敷にしたところが、中宮の出産の場所にはおよそふさわしからぬ、ボロ家であった。


敦康親王出産の翌年、不遇のうちに定子は死去する。享年25歳であった。


定子亡き後、まだ13歳の彰子は敦康親王を養子に引き取って我が子のように育てている。


やがて彰子にも一条天皇との間に、敦成親王(のちの後一条天皇)と敦良親王(のちの後朱雀天皇)が生まれる。


1008年寛弘5年、紫式部は日記に敦成親王の誕生の様子を事細かに書き留めている。


ところで藤原道長は第一皇子の敦康親王を無視して、敦成親王を皇太子にする。


これには定子亡き後に、敦康親王を我が子同様に養育してきた彰子は猛然と反発し、道長のライバル・実資に近付いたりもしている。


彰子はもちろん我が子もかわいいが、我が子同様に育ててきた敦康親王が不憫でならなかったのである。


敦康親王はまだ20歳の若さで病死したため、彰子は嘆き悲しんだ。


一条天皇が崩御し、三条天皇が即位したため、彰子は24歳の若さで後家となっている。


三条天皇は眼病のために1016年長和5年に譲位したためついに後一条天皇が即位し、彰子は国母となった。


そして立場的に彰子は、父親の道長よりも上位となった 。


道長亡き後、彰子は国母として、政界のゴッドマザーとして君臨した。


1036年長元9年、後一条天皇が崩御すると後朱雀天皇が即位し、彰子は引き続き国母として活躍している。


彰子は道長のライバルであった実資も味方につけて、道長の後継者・嫡男で凡庸な頼通を助けた。


また彰子は長生きはしたが、良いことばかりではなく、道長に続いて、多くの肉親がさきに逝去してしまう。


そして道長の後をついだ頼通の時代は、摂関政治が衰退していく時代でもあった。


ところで彰子の家系の女性は長寿で、彰子の母・源倫子は90歳、祖母の藤原穆子は86歳まで長生きしている。


そして藤原彰子は1074年承保元年、87歳で天寿をまっとうしている。


そのため彰子は、藤原氏の摂関政治が徐々に衰退し院政が台頭してくるのを、見届けることになるのである。


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