紫式部は夫の藤原宣孝が逝去したのを契機に「源氏物語」を執筆した、というストーリーが定説となっている。


ところが紫式部は宣孝と結婚する以前にもある男性と家庭を持っていた、とする説が近年、注目されている。


紫式部が宣孝と結ばれる以前に、別の男性と結婚していたとする、もうひとりの夫説を、詳しく見ていこう。


紫式部は貧しい中流貴族・藤原為時の娘と生まれたため、なかなか結婚出来なかった。


そのため彼女は20代半ば過ぎに、親子ほども年上の藤原宣孝と結婚したというのが定説になっている。


ところが国文学者の上原作和氏は著書「紫式部伝」の中で、紫式部は藤原宣孝と結婚する前に「紀時文」という男性と結ばれていたと言うのである。


上原氏によれば、当時の常識からして彼女が20歳半ば過ぎまで誰とも結婚していないのは不自然だという。


そして藤原道長との関係についても、「御堂関白道長妾」という「尊卑文脈」の記述は無視され、貞淑な紫式部像が形成されてきたというのである。


紫式部の父・藤原為時は長く官職がなかった。


そのため紫式部は、婚期を逃したというのが定説であった。


彼女の14歳から24歳頃までの十年間の動静を知るには、わずか数首の和歌が残されているだけである。


その中に「方違へにわたりたる人」を詠んだ歌がある。


当時の人々は、陰陽道を信じ生活の中に取り入れていた。


そのため自分の行こうとする所が陰陽道での避けるべき方角に当たるとき、いったん別の方向の知人や縁者などの家へ行って泊まった。


そして翌日、そこから目的地に向かうというように、災いが起こることを嫌ったのである。


方違へにきた人物は、紫式部の家に泊まった夜、彼女に接触しようとした。


その人物は、以前から無条件に疑うことなく、長く藤原宣孝だとされてきた。


しかし彼女の邸宅には、宣孝以外にも、多くの男性たちが訪れているのである。


紫式部は「源氏物語」で自らの結婚観、結婚の条件というものを提示している。


彼女は「浮舟」で浮舟がなかなか結婚出来ない理由として「継子」であるからとしている。


紫式部も早くに母を亡くしたが、父・為時は他の女性のところに通っている。


当時は継子の女性は、結婚するのに、かなりのハンディがあったようだ。


当時の女性の初婚適齢期は12,3歳から20歳過ぎまでである。


ところで父親の為時は官職についていなかったが、学問の先輩には優れた人物が多くいた。


そんな中に御書物所預の先達・紀貫之の嫡男・時文がいた。


紫式部の祖父や曾祖父が紀貫之らの文人と広く交流していたことはよく知られている。


紫式部の曾祖父・藤原兼輔は三十六歌仙にも選ばれた有名な歌人であった。


賀茂川の堤に大きな邸宅があったことから紀貫之らもたびたび訪れ、兼輔は堤中納言と呼ばれた。


そして紫式部の邸宅に出入りした人物の中に、紀時文がいた。


紀貫之の嫡男・時文は、父親の威光もあって、若くして梨壺の五人に選ばれている。


梨壺の五人とは、村上天皇の命により、選ばれた優れた歌人ことである。


そして四十歳近い年齢差がありながら、紫式部と紀時文は結婚したというのが、上原作和氏の説である。


紫式部が20歳とすれば、時文はすでに60歳であった。


「紫式部集」には彼女と時文の結婚生活を詠んだと思われる歌が二首残されている。


紫式部は夫・紀時文を通じて多くの文化人と懇意となり、学識を身につけていった。


紫式部が「源氏物語」で紀貫之や曾祖父の藤原兼輔の歌を多く引用しているのはそのためだという。


それでなければ、「源氏物語」というあらゆる知識・学識が必要な大作を書くことは出来なかったというのである。


紀時文は996年長徳2年頃に逝去している。70歳であったと言われている。


30歳になった紫式部は、失意の中、2年後に父・為時に従って越前に赴くのである。


もしも紫式部が紀時文と結婚していたとすれば、のちに親子ほども年齢差のある藤原宣孝と結婚することにも抵抗はなかったはずである。


紫式部が想像を絶する膨大な知識をどこで身につけたのかを考えれば、充分あり得る学説だと思われるのである。


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