藤原道隆が関白に就任すると、まだ21歳の嫡男・伊周が内大臣となって、道長の前に立ちはだかった。


道長と伊周のその後を詳しく見ていこう。


藤原伊周は974年天延2年、道隆と正室・高階貴子の間に生まれている。


道隆にはすでに妾との間に道頼という長男がいたが、正室の子供である伊周が嫡男となった。


伊周という名は、殷の伊尹と周の周公という二人の賢臣からとった名前である。


道隆と貴子が、いかに伊周に期待をかけたかがうかがえる名前である。


道隆とその嫡男・伊周、弟の隆家、そして妹で一条天皇の中宮定子たちはのちに「中関白家」と呼ばれた。


なぜ「中関白家」と呼ばれたのかについては、兼家と道長の中間に位置したからという説が有力である。


父・兼家は後継者を道隆に指名して死去する。


すると摂政となった道隆は、正室・貴子の父・高階成忠を従三位に叙すなど、あからさまな身内優先の人事を行った。


そのため公卿たちは反発して、出仕拒否をする人々が多かったという。


道隆の政での強引な手法が、のちの中関白家の急速な没落の遠因となる。


この時期に道長は、兄・道隆の政治上の失策から、より有効で効果的な政治手法を実地で学ぶのである。


伊周は源重光の娘と結婚し、19歳で権大納言に任じられた。


すると正月の宴で、伊周は大臣と同じ席にすわったために道隆に席を追われるという事件を起している。


若く傲慢な伊周は有職故事などの前例を無視して、たびたび藤原実資らの公卿たちと対立している。


しかし定子が一条天皇の中宮となって、中関白家はまさに我が世の春を満喫するが、快く思わない公卿たちも数多くいた。


「大鏡」には、この頃に道隆邸で、伊周と道長が弓争いを行った様子が書かれている。


道長が「我が家から帝が出て、自分が摂政・関白になるならばこの矢当たれ」と言って見事中心に当てたという逸話である。


もちろんこれは後世の創作であろうが、道長が見事な射的を披露したのは事実で「小右記」にも記録がある。


関白となった道隆は、正室の高階貴子に命じて、中宮定子のもとに優れた女房たちを集めさせた。


和歌や漢詩にも素養のある貴子は、清少納言や赤染衛門といった文学的才能にあふれる女房たちを集めた。


そのため中宮定子のもとには文学好きな一条天皇も頻繁に通い、定子のサロンはいつも笑いに包まれたという。


清少納言は、中関白家の栄華に満ちたその時の様子を「枕草子」に、余すことなく綴っている。


994年正暦5年、伊周は道長など三人の大納言を飛び越えてまだ21歳の若さで内大臣となっている。


しかし中関白家の華々しい栄華も、長くは続かなかった。


この年の11月に、関白道隆は持病である糖尿病が悪化する。


道隆は無類の酒好きで、それが持病の糖尿病を急激に悪化させたようである。


一条天皇は、伊周が道隆の病中だけという制約付きで、関白に次ぐ内覧という地位にするという宣旨を下した。


すると伊周の母・貴子の兄・高階信順が謀略を巡らし、宣旨の「関白病間」という文字を「関白病替」に書き替えた。


これだと「関白の病に替えて」ということになり、伊周がずっと内覧にとどまることが出来ることになる。


いよいよ病状の悪化した道隆は、伊周に関白の座を譲ることを望んだ。


しかしこの高階家の陰謀が表面化したため、一条天皇とその母・東三条院詮子は伊周が関白になることを許さなかった。


特に東三条院は、日頃からの中関白家の専横ぶりと貴子の実家の高階家が権勢を誇る態度を快く思っていなかったのである。


関白・藤原道隆は後継者を決定出来ないまま、翌995年長徳元年4月に摂政就任後わずか5年、43歳という若さで他界する。


このため中心者が定まらないまま道隆を亡くした中関白家は、その後迷走を続けた。


その間をぬって道兼が関白となったが、疫病のためにわずか数日で逝去する。


当時は天然痘が蔓延していたため、わずか4ヶ月の間に公卿10名の内、6名が疫病で死去している。


後継者争いは、生き残った伊周と道長の間で争われた。


一条天皇は中宮定子の意向を受けて、伊周を内覧に指名しようとした。


しかし東三条院詮子は、天皇の寝所にまで押し掛け、涙ながらに一条天皇を説得したため、ついに道長が内覧となった。


道長政権が発足すると、まだ22歳の伊周は焦り、花山法皇に不敬をはたらくという前代未聞の事件を起こしてしまう。


996年の正月に起こった「長徳の変」と呼ばれるこの事件は、花山法皇と伊周の弟・隆家の従者が乱闘となり二人の従者が死亡した。


「栄華物語」には、伊周が愛人である故藤原為光の娘のところに、花山法皇も通っていると勘違いして起こした事件だと言われているが真偽のほどは不明だ。


このため伊周と隆家はともに大宰府と出雲へ左遷され、中関白家は一挙に没落する。


定子は一条天皇の子を懐妊していたが、あまりのショックのために出家してしまう。


しかし定子を愛する一条天皇は、出家後も定子の参内を許している。


定子はこの年の12月に脩子内親王を出産したため、伊周と隆家は都へ召還されている。


定子はさらに、999年長保元年11月には一条天皇の第一皇子となる敦康親王を生んでいる。


同じ月に道長は、まだ12歳の長女・彰子を入内させている。


道長は定子を皇后にして彰子を中宮にするという強行策を実行したが、定子は媄子内親王の出産時に逝去する。


そのため敦康親王の後見として、中関白家を復権させようと一条天皇と道長は苦心した。


しかし公卿たちは、過去に伊周が専横を繰り返したため、彼の復権を望まなかった。


道長は彰子が敦成親王を出産するにいたって、ついに伊周の復権を断念している。


1009年寛弘6年、伊周は道長、彰子、そして敦成親王を呪詛した罪で罪人となった。


そして1010年寛弘7年正月、藤原伊周は失意のうちに37歳で逝去した。



藤原実資は中関白家の不運を見て、「小右記」に「禍福は糾える縄のごとし」と記した。


中国の故事で、災禍と幸福とは糾った縄のように表裏一体であり、一時的に一喜一憂しても仕方がないという意味である。


誰の人生にも良いときも悪い時もあるので、悪い時はじっと耐えるべきだと実資は言いたかったのであろう。


その後伊周弟・藤原隆家は、「刀伊の入寇」と呼ばれる海賊を九州で打ち破った英雄として、家名を上げ面目をほどこしている。


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