大河ドラマでは、幼い頃に母を亡くした紫式部が成長し、いよいよ宮中で活躍するという佳境に差し掛かっている。
紫式部の結婚・出産から「源氏物語」の執筆までの、その後を詳しく見ていこう。
紫式部は996年長徳2年、父親の藤原為時が受領として越前に赴くのに随行する。
花山天皇が即位したことで、やっと為時も無官の状態から抜け出し越前守という地位を手にする。
一行には紫式部のほか、弟の惟規も随行して、秋の琵琶湖を眺めながら打出浜(大津)から船で塩津(長浜)に到着する。
さらに紫式部たちは敦賀をへて、任地先の武生(越前市)に到着する。
人生ではじめての長旅で、美しい大自然に触れた紫式部は、目にした海や山河を歌に詠んだ。
この越前へ同行した体験は、紫式部がのちに「源氏物語」を書く上で貴重な経験となった。
やがて任地先へは都にいる藤原宣孝から、求婚の和歌が送られてくる。
宣孝は昔からの顔馴染みだが、紫式部よりも20歳以上も年が離れおり、結婚相手として意識したことはない。
しかも彼には三人の妻と四人の子どもがいる。
沈黙を続ける紫式部のもとには、さらに宣孝から何通もの恋文が送られて来る。
そこには彼女を思う、切ないがセンスにとんだ宣孝の和歌が添えられきた。
感受性の高い紫式部の心は、揺れ動いた。
ちょうどこのような時期に、都から同行してきた弟の惟規が病にかかり、帰らぬ人となってしまう。
ドラマには登場しないが、紫式部には姉がいて、その姉も赴任前に亡くなったと言われている。
続けて愛する人を喪い、心にポッカリと穴のあいた紫式部は、やがて宣孝の求婚を受け入れる。
紫式部が26歳、宣孝は40歳半ばという年齢で、宣孝の息子の隆光は紫式部とほとんど同じ年齢であった。
宣孝は、位階は正五位下に過ぎなかったが、官職は今日で言えば警視総監にようなもので、実力者であった。
ひょうきんで派手好きの宣孝は、仕事では優れた行政手腕を発揮していた。
父親を残し単身都に帰った紫式部は、藤原宣孝としばらくは新婚生活を楽しんだ。
当時は婿入り婚が主流なため、宣孝が紫式部の屋敷へ通った。
紫式部はやがて懐妊して、999年長保元年、元気な女の子を出産する。
娘は母親のように賢くなるようにとの思いから、賢子と名付けられた。
宣孝はなかなかのプレーボーイで、子どもが生まれると足が遠のいたため、紫式部は何首かの和歌を送っている。
しかし短い結婚生活は、宣孝が疫病に罹り息を引き取ることで終わりを告げる。
平安時代の中期には、毎年のように疱瘡(天然痘)や麻疹(はしか)などの疫病が猛威を振るった。
当時は 感染症に関する知識がなく、治療法や特効薬も確立されていなかった。
そのため人々は疫病は鬼やもののけがもたらすと信じ、安倍晴明などの陰陽師の厄除けや祈祷に頼ったのである。
立て続けに肉親を喪った紫式部は、小さな子供を抱え、我が身の不幸とこの世を憂えた。
ただ救いだったのは、任地先から父の為時が四年ぶりに都に戻ってきたことである。
紫式部は父親の世話になることで、子育てに専念する事ができたからだ。
彼女は暇な時間を見つけては、小さな頃からの構想であった物語の執筆に取りかかる。
為時の屋敷には、執筆に必要な漢文などの参考資料がたくさんあった。
「源氏物語」は全部で54帳もある壮大な物語である。
ところで紫式部は「源氏物語」を藤原道長、もしくは中宮彰子に請われて執筆したとされてきた。
しかし近年では「桐壺」から「須磨」までの12帳は、彼女が宮中に上がるまでに書きためられていたとする学説が主流である。
「源氏物語」は紫式部が、若い頃から構想していたものや、書きためていたものを多く含んでいる。
そのため物語の中には、彼女が少女時代に曽祖父と訪れた寺社なども登場する。
彼女は母や姉、そして弟や夫を亡くした悲しみを乗り越えるために「源氏物語」を書き始めたのである。
紫式部は、最初は友人たちだけに「源氏物語」を読ませていたが、やがて宮中にもその噂は広まっていく。
宮中の女房たちが「源氏物語」の魅力に取りつかれ、熱狂的なファンとなる。
やがてその噂は藤原道長の娘で、一条天皇の中宮の彰子にまで届く。
当時はまだ、一条天皇と彰子の間に子供はなかった。
藤原道長は彰子に教養をつけて、天皇を引き付けるための教育係として、紫式部を宮中に招いた。
紫式部は道長やその妻の倫子とは又従兄妹で、邸宅も隣同士で昔からの顔馴染みであった。
紫式部は1006年寛弘3年の年末、彰子のもとに出仕する。
彰子が漢文も教えて欲しいと紫式部にねだったが、当時は真名(漢字)を学ぶのは男性だけだという風潮があった。
そのため紫式部は彰子に、誰にも知られないようにこっそりと漢文を教えている。
紫式部は彰子の教育係を勤めながら、「源氏物語」の執筆を続けた。
やがて文学好きの一条天皇も「源氏物語」を目にして、ファンの一人となる。
一条天皇は「源氏物語」の作者である紫式部が「日本書紀」などの歴史も踏まえて書いていることに感心する。
そのため紫式部を「彼女こそ日本紀(日本書記)を講義すべき人である。 まことに知識がある」と天皇は絶賛した。
すると宮中の女官たちが妬んで、紫式部に「日本紀の御つぼね」というあだ名をつけてからかった。
宮中勤めがはじめての紫式部は、女官たちのいじめに気を病んでやがて引きこもりとなる。
彼女は数ヶ月の間、宮中には上がれず、家に閉じ籠っている。
彼女の先輩で、同じく子持ちで宮中に出仕した清少納言も、最初は女官たちのいじめで引きこもりになっている。
現代社会では、学校での「いじめ」が問題になっているが、「いじめ」は平安時代にも存在したのである。
一見、豪華で華やかな宮中での生活だが、内実は女性たちの陰湿ないじめや、男性貴族たちの果てしない権力争いが渦巻いていた。
彼女は働きはじめて、「出る杭は打たれる」ということを学んだ。
紫式部が博学で天皇にも認められた才女であることを、女官たちは嫉妬して彼女をいじめた。
そのため職場に復帰してから彼女は、目立たないようにして、「一という漢字も知らない」ふりをしたという。
紫式部は、その後も人間関係や仕事、ライバルに対する嫉妬などに悩みながらも子育てのために奮闘していく。
すると紫式部は宮中の女房たちからいじめられることもなくなり、スムーズに溶け込めた。
人間関係を円滑にしていくためには、不本意であっても周囲への配慮というものが不可欠のようである。
こうして紫式部は中宮彰子のもとで、いよいよ「源氏物語」を本格的に執筆していく。
紫式部が、苦労を重ねながら宮中で生き抜いていく姿は、現代社会に生きる我々にも貴重な教訓を与えてくれそうである。
【紫式部のその後①】ユーチューブ動画