藤原道兼は、花山天皇をだまして出家させ退位させるという前代未聞の事件を引き起こした。


藤原道兼と花山天皇のその後を詳しく見ていこう。


藤原道兼は兼家の三男として961応和元年に生まれている。


母は藤原中正の娘で、道隆、道長、超子、詮子とは同母兄弟姉妹である。


道兼という人物を知る上で貴重と思われる、次のようなエピソードが残されている。


990年永祚2年、藤原兼家は臨終を前にして子息の誰に関白を譲るべきかについて、信頼する三人の側近に意見を聞いた。


すると三人のうちの二人が兄弟の順番がよいと答えたので、兼家は道隆を後継者に指名している。


「栄花物語」では、道兼の容姿は「顔色が悪く毛深く醜かった」と酷評されている。


また、性格について「大鏡」では「非常に冷酷で、人々から恐れられていた」と記している。


また他の記録で道兼は意地が悪く、長幼の順序もわきまえずに、兄の道隆をいつも諭しているようなところがあったとされている。


一方の長兄・道隆の性格は、冗談を好み、おおらかで明るい人であったと言われる。


一条天皇の関白を務めた道隆は、のちに娘の定子を一条天皇の中宮とし、更なる栄華を誇った。


道隆は定子の周りに紫式部をはじめ、赤染衛門や和泉式部などのそうそうたる歌人を集め、文化サロンを形成した。


そしてそのサロンから、「源氏物語」や「栄華物語」などの格調高い文学作品が産み出されている。

藤原道隆は政治家としても、また文化人としても超一流であった。


さらに弟の道長は幼い頃から物怖じしない豪胆な性格で、2人の兄、道隆と道兼に肝試しで勝ったという逸話が残っている。


兄道隆の明るい性格と、弟道長の剛胆さに対し、道兼は性格や容姿などにコンプレックスを抱いていた可能性が高い。


「兼家と師輔」の動画で見たように、道兼の父・兼家と祖父・師輔は無類の冷血漢で悪党であった。


その二人の冷血漢で悪党という血統の部分を、一番引き継いだのが道兼だったようだ。


藤原兼家は目的のためには手段を選ばず、わが子であろうとかまわず犠牲にした。


兼家は兄の道隆や弟の道長には表向きの仕事を、そして道兼には裏方の汚れ役を命じたようだ。


その証拠に花山天皇が即位すると、道兼は天皇側近の蔵人に出世するが、兼家は早速道兼にある策略を持ちかけている。


それは天皇を騙して出家させ退位させるという、前代未聞の悪辣・非道な謀略だったからである。


一方の花山天皇は968年安和元年、冷泉天皇の第一皇子として生まれている。


母は藤原兼家の長兄・伊尹の娘・懐子である。


兼家は長兄で関白の伊尹が死去すると、次兄の兼通と関白の地位をめぐって争った。


兼家は、娘の詮子が入内して円融天皇の懐仁親王(のちの一条天皇)を生むと、皇子を人質に天皇に退位を迫った。

円融天皇はわが子・懐仁親王を皇太子にすることを交換条件に、花山天皇に譲位する。


花山天皇は17歳で即位したが、叔父で伊尹の五男・藤原義懐と、乳母の子である藤原惟成とともに気鋭な政治を行おうとした。


若い花山天皇は、兼家らの藤原九条家が政治の実権を牛耳る現状をなんとか打破しようとしたのである。


すると兼家は、花山天皇を退位させようとして、天皇は発狂したごとくいいふらした。


「古事談」という記録書には天皇が即位の日、高御座の中へ女官を引きいれていきなりことにおよんだ、と記されている。


さらに、天皇は即位式の冠が重いと投げ捨てたとか、清涼殿の壺庭で馬を乗り回そうとしたといった不謹慎な行動があからさまに記されている。


さらに花山天皇は19歳のとき交情の深かった藤原斉信の妹・忯子が病没して悲しみに沈んでいた。


このとき藤原兼家にいいふくめられた息子の道兼がいっしょに出家しましょうと天皇にもちかけた。


道兼は自分も出家して末永くお側にお仕えしますからとしきりにすすめる。


道兼のことばにのせられた天皇は二人でこっそり御所をぬけだして寺で剃髪をおこなった。


その間、兼家たちは神璽と宝剣を皇太子の部屋に移してしまい、道兼も天皇を寺においてきぼりにして逃げ帰った。

さては道兼にあざむかれたかと天皇は嘆いたが、すでにおそい。


結局兼家の謀略にまんまとはまった花山天皇は、在位わずか二年足らずで退位する。


彼にはもはや譲位して上皇になるよりほかはなかった。


若い経験不足の花山天皇と、あらゆる権謀術数を駆使して権力の頂点にのぼりつめた藤原兼家との勝負では、結果は最初から決まっていた。


後世、兼家は娘の詮子が生んだ懐仁親王(のちの一条天皇)を早く帝位につけたかったから天皇を狂人といいふらしたのだといわれた。


ところで紫式部の父親・藤原為時は、花山天皇が幼少の頃に漢文などを教えていた。


そのために花山天皇の即位に伴い、為時は朝廷に出仕、受領として越前に赴任している。


これには紫式部や弟の惟雅も、任地先に同行している。


ところが花山天皇が退位すると、為時はたった二年足らずで再び無職となってしまう。


いずれの時代も、宮仕えは大変なのである。


それはともかく、花山天皇は絵画や意匠にすぐれたデザイナーであり、牛車の装飾や硯箱の図案、礼装用の革などに天才的なデザインをのこした。


和歌も堪能で勅撰集には70首もの秀歌が収載されている。


藤原道兼は、兄の道隆が亡くなると関白の地位についたが、当時流行りの疫病で、就任後わずかで死去する。


そのため「七日関白」と呼ばれた。まだ35歳の若さであった。


大河ドラマでは紫式部の母親を殺したことになっているが、藤原三兄弟の中では、一番傍若無人な人柄であったようだ。


出家した花山法皇は、播磨の書写山に赴いた後、比叡山や熊野に入って仏道修行に励んだ。


しかし帰京後に彼は、根っからの色好みなのか、東院の伊尹の娘・九の御方のもとに住んだ。


そして花山法皇は、乳母とその娘の、母子ともに寵愛した。


法皇は藤原為光の娘にも通った事から、藤原伊周に誤って矢を射かけられた。


この事件で藤原道長のライバル・藤原伊周とその弟・隆家が左遷される。


花山法皇はひょんな事から、道長の政権争いに味方した。


花山法皇は1008年寛弘5年、41歳で崩じている。


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