公(おほやけ)の使い方 | 歴史考察とっきぃの 振り返れば未来

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こんにちは。

歴史家とっきぃです。

 

日本史の先生方の著作を読んでいると、違和感を感じることがあります。

東洋の儒教体系では「王」に対する尊称は「殿下」です。

漢帝国で天子様が、外様の功臣や親族に封度を与えて「王」の称号を与えたのが嚆矢(こうし/始まり)です。

ですので、例えば琉球王の場合、琉球国王殿下となり、お世継ぎは王太子ではなく、王世子(おうせいし)です。

この概念は日本にも当てはまります。長屋王とか、以仁王とか、朝家の男性血族に与えられます。江戸時代までは皇族男子は、定親王家(世襲親王家/徳川御三家みたいなもの)を除いて、天皇から親王宣下があってはじめて「王」より格上の「親王」になれたのでした。今みたいに誕生の瞬間に自動的に親王にはなれないのですね。

要するに公爵とか、伯爵とかのグループに位置づけられるんです。

 

問題は、この「王」概念を西洋にまで持ち込むことです。

フランス国王陛下ではなく、国王殿下が正しいなんて言っているんです。まったくこれはおかしい。

欧州のkingは「王」の訳語がふさわしい語彙です。

kingとは、ゲルマンだろうと地中海だろうと民族の最高指導者です。民族の繁栄を願って祭祀もおこないます。

孟子の言う「王とは天地人を貫く一本の柱」そのものです。

だからこそ、kingの概念は「王」であり訳語としてこれほど適切なものはない。

しかも、kingに即位するにあたり塗油という一種の儀式を伴います。戴冠式をフランスで言えば「成聖式」、英国なら「聖別式」と言います。聖油を塗られることで、マナ(神秘的な力)が生じるのです。国王はもはや人ではなく一歩上の存在になるのです。

エリザベス一世女王が、メアリー・スチュアート処刑にためらいを感じたのは、国王の不可侵性に接触するからでした。事実、彼女の2世代後のチャールズ一世は現役の国王にもかかわらず、処刑されています。神聖というものは、一度地についてしまえば、もう終わりなんです。

筆頭爵位みたいな東洋の「王」とはまったく違うのです。

 

畢竟(ひっきょう/要するに)、欧州では王の属性は貴族というより、聖別を通じてむしろ皇帝に準じた立場になるのです。「国王」という訳語が使われるのはそのためです。なればこそ、呼称は皇帝と同じ"Your Majesty"なのです。

日本では「陛下」と訳されます。

要するに「国王陛下」が正しい表現で、国王殿下なんて噴飯モノで無礼極まりない表現なんです。国王の世継ぎはもちろん「王太子」であって、王世子ではありません。逆に公爵ならば「公世子」で正解です。

小学生向きのジャンヌ・ダルクの伝記では後のシャルル七世に対して「わたしの王太子さま」と書かれています。どの版もそうです。

 

ポン史(日本史)の先生は日本の履歴だけしか勉強しませんから、専門外の言及はちょっとあやしい。

日本刀は低温しか生み出せなかったから生まれた産物であり、中国にはコークス(独:Koks)があったから流し込みでつくれたと、どこかで読んだことがあります。科学技術の発展した北宋帝国ならともかく、古代中国にコークスがあったのか、首を傾げました。

或いは、織田信長が生き続けていたら産業革命は百年早く達成されたの類です。信長時代の欧州は宗教戦争とペストでグダグダになっていた16世紀後半です。キリがないのでこのへんでやめときます。

 

さて、東大の史料編纂所に本郷和人博士という教授がいます。コンスタントに一般向けの著作を出しておられる割りと有名な方です。

টুইটারে #8月15日は本郷猛の誕生日 হ্যাশট্যাগ本郷猛 東映

大河ドラマ「平清盛」の時代考証を担当して、かなり叩かれていました。この方がある著作でおもしろいことを述べています。

テレビの「ナショナル劇場 水戸黄門」(CAL)で格さんが、

「この御方を誰だと心得る、畏れ多くも前中納言、水戸光圀公にあらせられるぞ!」の水戸光圀”公”というのは、誤りだと主張しているのです。

「公」と言っていいのは大臣だけであり、大納言や中納言は公卿の”卿”にあたるのだから水戸光圀”卿”が正しいという主旨でした。同じ理由で熊本の清正公(せいしょうこう)もダメだとなります。

印籠シーン | 光圀の西山荘 - 楽天ブログ加藤清正 - Wikipedia

本郷博士は、なぜ大河ドラマ「平清盛」で自分が叩かれたのか、何もわかっていらっしゃらないようです。ドラマはエンタメです。史実に忠実になんてやると視聴者の潜在的希望とどこかで衝突します。

石坂浩二の「水戸黄門」が不評で途中で路線変更したのも、そのためです。

水戸光圀公の「公」というのは、公卿の公ではありません

「おほやけ」の公です。公務員や公園の公と同じです。

世のため人のために尽くした人のことを「公人」というのが本来の表現です。なぜ公務員にクビがないのか、クビを恐れていてはできない仕事もあるからです。

その代わり自治体に仕えることが要求されます。「海猿」が命がけで仕事して微々たる手当しか出ないのもそのためです。霞ヶ関の官僚が泊りがけで仕事して給料的にはあんまり報われていないのもそうですね。

「おほやけ」に仕えるとは、そういう意味です。公園も金持ちだけではなく誰でも利用できるおほやけの空間です。

元来は天皇を指した言葉で、天皇が私心を捨ててお祈りする姿を表現しています。朝家(ちょうか/皇室)が生き続けるのも天皇が国家を代表して日夜、祈りを続けるからです。秋篠宮家の当主はドラ息子ですからこの辺があまりわかっておられません。困ったものです。

 

ここから敷衍(ふえん/詳しく説明)すると、水戸光圀は全国漫遊の旅で不埒な悪代官を懲らしめている「おほやけ」の人です。

「清正公」も正しい。加藤肥後守が熊本でおこなった善政は今でも評価されています。多くは申しません。熊本城天守閣へ足を運んでみてください。清正公は肥後の行政に尽くした「おほやけ」の人物なのです。

明智光秀公顕正会も同じです。行政でおほやけに尽くしたからこそ、光秀”公”なのです。

ボード「麒麟がくる」のピン

以上、ポン史の博士ごときのくだらないウンチクは切り捨てて、

堂々と水戸光圀公、藤堂高虎公、明智光秀公を声高く言いましょう。そして土佐や紀州と並んで難治だった肥後を安心で満たし、熊本の治水に功績のあった加藤清正公は日本一の武士です。

 

本郷博士の名誉のために申し上げておきます。

「ザインとゾーレン」理論の創出、「東国国家論」の継承など、立派な研究をされてとても学びが大きい碩学です。なかでも切った張ったの武家が統治に目覚めていくあたりの展開は最高です。

ただ、自分の知らない射程外のことを、したり顔で言うから叩かれるんです。熱烈なファンであるこのとっきぃですら、こうして叩いているのですから。

 

ちなみに世の社長さんも「おほやけ」の存在です。

人を動かして世のため人のために貢献しているからです。

ただし、どんなにメディアでいい顔をしようとも、従業員を奴隷として酷使しているブラック企業はおほやけではなく私利私欲にまみれた国賊です。一刻も早く獄門台に送りましょう。

 

びくともしない日本の建築物は、土建屋の誇りです。

道の達人であるタクシー運転手も間違いなく世に貢献しています。

「おほやけ」を心に置くと、心に光が灯ります。

 

「今だけ・カネだけ・自分だけ」は、自己憐憫の感情から出発します。「オレはこんだけ苦労したんだからこれくらいいいだろう」というマイナスの思いは捨てましょう。これを精神の排泄といいます。

 

これからの時代、新しい中世は「我よし・君よし・周りよし」の時代です。

ともに歩んでいきましょう。

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