イランは、かつて古代ペルシャ帝国(アケメネス朝、ササン朝)の成立した地であり、そのずっと前には中央アジア草原にあった「アーリア人」の祖先集団=「インタシュタ文化」の人々が移住してきて、セム系民族などの先住者と交雑を果たした地です。ここはまた、古い印欧語集団の古信仰(異教信仰)の中からゾロアスター教をはじめ、ヘブライ教、マニ教、仏教(弥勒信仰)などが生まれた地であり、まさにその後の世界宗教となった原信仰の発祥の地ともいえます。
しかし、この地は、その地政学的条件のためか、その後、様々な民族集団が入り込んできた土地ともなりました。
BC336年には、マケドニア(ギリシャ)からアレクサンドロス大王の東征を受け、ギリシャ人の支配を受けることになってしまいました。その後、ギリシャ系セレウコス朝からの独立を果たし、ササン朝ペルシャ帝国が成立します。
ところが、7世紀になると、アラビア半島に興ったイスラム勢力の支配下に入り、750年、アッバース朝のイスラム帝国の支配下にはいることになります。
とはいえ、イスラーム帝国の支配は、イラン社会を圧殺するようなものではなく、宗教的にもかなり寛容な社会であったことが知られています。この時代のイスラーム社会は、かなり開かれており、古代ギリシャや古代ローマの様々な思想、哲学、科学が紹介され、研究されていた社会だったことが知られています。同時代の西欧が中世前期にあたっており、経済的、文化的に沈んでいただけに、こうしたイスラーム文化の隆盛がいっそう注目されます。
私の好きな詩人のオマール・ハイヤームの4行詩文「ルバイヤート」が現れたのもこの時代(11世紀)です。残念ながらペルシャ語を読む能力はありませんが、日本語訳や英訳などが出ており、英訳はネットでも読むことができます。
このルバイヤートを読むとわかるように、オマール・ハイヤームは、イスラームではありません。むしろ信仰を持たない「自由思想家」だったようです。しかも、彼は、詩人・文学者としてというよりは、数学者であり、哲学者であり、天文にも詳しい科学者であり、すばらしい暦を作成した人であったことも知られています。ドイツ近代の詩人ゲーテは、イラン(ペルシャ)には、7人の素晴らしい詩人がおり、その他にも自分の知らない多くの詩人がいるだろうと言ったということですが、オマール・ハイヤームは、自然科学者でありながら、そのようなゲーテの知らなかった大詩人だったようです。
実は、私の住むところからそれほど遠くない横浜市には古代ユーラシアの展示を行う博物館があり、何度かそこへ足を運びました。これは故・江上波夫さんの尽力で生まれた博物館であり、決して広くはありませんが、イラン出土の焼き物も展示されており、その美しさには、いつも感動しています。正倉院の御物にもペルシャ産の何かが収めれれていたように思いますが、不思議な魅力を感じさせる土地と思います。
ところが、そのイランの地が1258年にモンゴル軍によって征服されてしまいます。これはイランや隣のイラクにとっては、空前絶後の災厄を意味しました。モンゴル帝国側の事情(大ハンの死と相続争い)によって、西アジアへのモンゴル軍の侵攻は、ルーシへの侵攻より若干遅れましたが、結局、フレグの率いる遊牧騎馬軍団は中近東に入り、各地を陥れ、特にフレグを暗殺しようと試みたとされるイスラム教徒のいたバグダッドは、灰燼に帰し、一説によれば100万人が命を落としたとされます。
最近のある研究は、モンゴル人が決して野蛮な未開人ではなく、世界史上ユーラシアを一つに結び付けた快挙をなしとげたとして再評価するべきとも言いますが、果たしてそうでしょうか? ともかくモンゴルの侵入を受けた側が受けた被害は甚大でした。
モンゴル軍の行ったことはかなりはっきりしており、相手陣営が抵抗した場合には、相手を全滅させることも辞さないという作戦が採用され、ただ捕縛された若い女性と子供、有能な職人(技術者)だけを奴隷として残したようです。
しかし、侵略を受けた側が投降した場合もかなりの重圧がかかったことは間違いありません。およそ1251年頃から被征服地における人口調査がモンゴル帝国の各征服地で行われており、その数(戸数)に応じて、一定率のかなり重い「ハシャル」(貢納)と軍役が課せられたことが知られています。こうした人口調査は、「戸」を単位として実施されており、十戸、百戸、千戸、万戸ごとの単位にまとめられ、万戸を「テュメン」(tyumen)と呼ばれました。しかも、史料が語るように、これらの単位(千戸、万戸)は、モンゴル帝国やその各ウルスの支配部族間で私有財産(家族財産)として分配され、それに応じてハシャルや軍役が課せられたとみられています。
当時の人口調査台帳が残されているわけではないので、それらの詳しい地域的状況がわかっているわけではありませんが、おおよそ次のようだったとされています。
河北(中国・黄河以北) 100万余戸 (100 tyumen)
ルーシ(ウクライナ、ロシア) 43万戸 (43 tymen>tyma)
イラン 24万戸 (24 tyumen)
中国については、黄河以南の部分が不明ですが、かりに中国全域の人口が2,000万人であり、一戸あたり5人と仮定すると、400万戸となり、大元本国が圧倒的な規模だったことがわかります。
さて、イランに戻ると、この地を支配するに至ったイル・ハン国ですが、13世紀末に一つの注目される変化が生じました。それはフレグの子孫にあたるガザン・ハンがイスラームに改宗したことです。またこれと時をほぼ同じくして他の中央アジアのハン国もイスラームに改宗しています。このような宗教的変化がイラン支配にどのような変化をもたらしたのか、あまりはっきりしませんが、征服王朝による支配が終わったとは決して言えないようです。しかも、1370年になると同じモンゴル系の王朝、ティムール帝国が成立し、その下で征服王朝が続くことになります。
しかも、この間、イラクの地にまで別の遊牧民国家のオスマン・トルコがイランの周辺を脅かしはじめます。
こうして長期間征服王朝に支配下にあったイランですが、16世紀に入ってから、自前の王朝・サファビー朝が成立することになります。しかし、この王朝もイランにおける支配を確立するために、多数のトルコ人部族を軍人として用いることを余儀なくされています。
こうしたサファビー朝の君主は、こうしたトルコ人部族と彼らを統率するエミール階層を徐々に排除してゆくことに成功します。しかし、その過程は、ここでも君主権の支配領域を拡大するとともに、君主権力の増大なしには実現されませんでした。
もう一つ注目されることは、文化的中心地がイスラーム地域から西欧へと決定的に移動した事実です。
最初に書いたように、中世は、イスラーム文化が花開いた時期であり、この時期にイスラーム世界は文学と科学の世界的中心地となっていた感があります。地中海世界の各種の文献がアラビア語やペルシャ語に翻訳されたのもこの時期です。しかし、13~16世紀以降、この中心地は西欧に、しかも地中海世界ではなく、それより北方の世界に移ってゆきました。
かりに一部の歴史家が主張するように、モンゴル帝国がはじめてユーラシア世界を一つにまとめ、駅逓(yam)の制度を整備し、オルトク商人の交易活動を活発化したのが事実であるとしても、新しい近代世界が生み出されたのは、モンゴル帝国の中心部では決してなく、またそれが支配圏を及ぼした地域ではありませんでした。たしかにモンゴル帝国内の王朝部族・家族内では、多くの外国人が重用されていました。しかし、それは、結局、貢納物経済の上に栄えた表層にすぎなかったとみえ、支配領域内の民衆の中に新しい動きの萌芽をもたらすものではなかったよう見えます。
むしろ、反対であり、このステップ草原の世界から遠く距離を置くことのできた辺境から近代が始まっている事実に注目しなければなりません。
ただし、21世紀に入った現在、世界史はふたたび動きはじめており、いまやステップ地帯に隣接した地域から新しい変化が生じ始めています。たしかに一度確立した制度が変わるには時間がかかると思います。しかし、世界史は決して固定的なものではなく、変化することに注目しなければならないと思う所以です。