若い時、イギリス中央部のバーミンガム市にアパートの一室(flat)で借家住まいをしたことがありました。そこの家主が賃貸契約書では、"landlord" (土地領主)となっており、まるで中世の領主様のようだと思ったことをつい思い出してしまいますが、優しいおばあちゃんで、裏庭の花壇を自由に使っていいよと言ってくれました。とはいってもこちらは勉強しなければならない身、ガーデニングをしている閑などありません。時々、庭を見ていても、誰かが世話するまでもなく、放置してあるとしか思われません。ところが、日本ならば、あっという間に雑草だらけになるはずの庭がいつまでも変わりなく、植えた花が咲いているだけです。その時、ヨーロッパがモンスーン地帯にある日本と違って、かなり乾燥している地域だということを実感しました。
もちろん、乾燥していると言っても、雨は時々降ります。ものの本によると、古代にはヨーロッパ大陸に住んでいた猿がモスクワからパリまで木から降りることなく、木々を伝って行けたと記されているそうですが、とにかく木、森、林を育てるだけの降雨量はあったようです。中世になると、人々は森林開墾を行い、小麦などの雑穀栽培を行うと同時に、牛や馬、豚、羊などを飼育する牧畜を行いましたが、その時、多くの地域では、各農家が1フーフェ(Hufe, virgate, vloka)の土地を保有するのを原則としたとされています。その土地面積は、約16ヘクタールほどです。中世も盛期になると、いわゆる三圃制がしかれ、畑を3等分して春播畑、秋播畑、休閑地とし、ローテーションで耕しましたが、ちょうど3年で一巡する勘定です。休閑地には牛などの家畜を放し、地味の回復をはかったとされています。この他に薪などをとるために森林や冬用の牧草地が必要でした。
ここで注目されるのは、一家族4、5人が生活するのに、20ヘクタールほどの土地が必要だったことです。
これは、例えば日本の農家が平均して1ヘクタールの田圃や畑(プラスある程度の山林)を保有していたのに比べれば、かなり広い面積といわなければなりません。中国の1949年以前の農家の平均的な耕地面積は0.6ヘクタールですから、それに比べれば、ヨーロッパのほうは、それよりうんと広い面積を必要としたことになります。必要な耕地面積だけを考えれば、東アジアの人口密度がうんと高く、ヨーロッパのほうがうんと低かったと予想されることになります。
ただし、これは国土のどれだけが農耕のために利用可能か、その利用可能率にもよるので、国土面積全体を考えると、必ずしも成り立つとは限りません。それに同じ中国でも、北方がより寒く、降水量も低いので、欧州と同じように雑穀農業地帯となっているという事情を考えなければなりません。より狭い面積でより多くの人口を扶養できたのは、長江流域以南の温暖で降雨量の多い華南の地に限られています。
ともかく、農耕可能地について言えば、東アジア、そして南アジア(インド)が狭い土地できわめて多数の人口を扶養できたのは、その生態系のなせる業だったことは間違いありません。
しかし、現生人類は、西欧の冷涼な乾燥気候とも、アジアの高温多湿なモンスーン気候とも完全な別世界をなす砂漠地帯やそこに点在するオアシスにも居住するようになっていました。下図に現在(2023年現在)のいくつかの国の人口密度を示すグラフを掲げました。ここに示したように、トルクメニスタン、サウジアラビア、カザフスタン、モンゴルなどは、ステップ(草原)の他に広い砂漠の存在する国々です。これらの水も少なく、植物も少ない土地が多くの人口を扶養する力を欠いていたことは、あえて言うまでもありません。(アラビア遊牧民の生活については、本多勝一郎『アラビア遊牧民』が具体的イメージをつかむのにおすすめの本です。)
多くの研究者が語るように、おそらくイスラームは、この砂漠に生きる民にとって必要な生活術を説くもっともプラグマティックな宗教だったに違いありません。宗教というより、砂漠やオアシスで生き延びるための生活術・生活訓だったに違いありません。それはアルコール飲料を禁じ、豚肉の摂取を禁じ、女性に衣で全身をおおうことを求めています。しかし、禁酒は貴重な水の摂取を節約することに通じます。また豚肉の禁忌は、草原の草類を食べて反芻することのできない豚が何倍もの人の食料を奪うことを避けることができます。さらに女性が肌をさらすことによる性的刺激を禁じれば、結果的に人口増加を抑制することにもつながります(たぶん)。ムハンマドの教え(イスラーム)が現世における生活からなかなか分離できない一つの理由は、ここにあると考えることができるように思われます。
ところで、これまでステップ地帯の遊牧民とそれに直接隣接する農耕地帯との歴史的関係について書いてきましたが、人口論的にみると、ステップ地帯は砂漠地帯と森林地帯の中間に位置していることがわかります。
現在の国は、必ずしもステップ地帯と森林地帯に分かれておらず、むしろ両者を含んでいるために、それぞれの国内におけるステップ地帯と森林地帯の人口密度を示すことができなくなっていますが、それでも下図からは、ステップ地帯が森林地帯に比べて人口扶養力がかなり低く、しかし砂漠地帯に比べればかなり高いことを示しています。
下図に示した国のうち、例えばスペイン、ロシア、ウクライナ、セルビア、ルーマニア、イランなどは、広いステップ(草原)地帯にまで広がっている国でした。その一つ、スペインは、農耕に適さない広い土地を持ち、中世にイスラーム遊牧民の多く住む西欧唯一つの国でした。しかし、中世の技術革新のために農業開墾が可能となり、1492年に彼らが「レコンキスタ」(国土回復)を実現したと称する国となっています。ウクライナやロシアについては、言うまでもないでしょう。現在、ウクライナとロシアの係争地なっている「ノヴォロシア」(新ロシアの意味) や「マロロシア」(小ロシア)の大草原は、地球寒冷化が生じた16世紀以降に、北方の森林地帯に住んでいたスラヴ人が南下して農業開墾を行った結果、広大な農耕地に転じた場所です。
ともあれ、こうしたステップ地帯では、人口扶養力がきわめて小さいことは確かです。したがって本来砂漠から生じて広まったイスラームがこの地に広まったことは、上で述べたことから見ても、決して不可思議なことではありません。
さて、生態系から見ても、人口扶養力から見ても、宗教から見ても、相互に異なった様相を示す地域がユーラシア大陸に存在したことははっきりしています。そして、これらの地域相互の関係がこれまで無視されてきたわけでは決してないとしても、十分に理解されてこなかったのではないかと思われてなりません。
私にとって一つ不思議に感じられたのは、人口の少ないステップの遊牧民社会がそれに隣接する農耕地帯社会にとって「やっかい」と思われたのか、という点でした。しかし、それは次のように考えれば、納得できるのではないかと思います。
まず遊牧社会の人々の事情ですが、彼らは、遊牧生活で得られる産物(肉、乳、皮など)だけで充足できなかったのではないかと思われます。彼らはきわめて多くの人口を扶養し、多くの物産を生産する農耕社会の多種の財を必要としていました。
それらの財を平和な方法で入手するには、交易を行う必要があります。いうまでもなく、交易は基本的には等価交換にもとづく取引です。相手の欲するものを提供しない限り、自分の欲するものを手に入れることはできません。ところが、遊牧社会には、農耕社会民が欲するものを十分に提供できなかったのではないかと思われます。
ではどうするか? せっぱつまった時に行うのは、兵団を組織して農耕社会を襲い収奪するか、軍事的平定を通じて貢納物を収めさせるしかありません。もしそれができないならば、必然的に衰退の道を歩むしかなくなります。この推定が誤りでないことは、匈奴が南の匈奴と繰り広げた一連の紛争の中にきわめて具体的に示されています。一時期の匈奴は、漢から貢納物を得ることに成功しますが、漢の軍事的作戦が功を奏し、匈奴を打ち負かすと、匈奴は内部分裂をおこし、一部は漢に投降・同化し、一部は西方に向かって活路を開こうとします。(その最終的な運命ははっきりしていません。)
モンゴル帝国のことについては、不十分ながら少し論じましたが、ポスト・モンゴル期になると、今度はトルコ遊牧民族が草原に現れ、しだいに西に移動するともに、小アジア(アナトリア、現トルコ)を中心とする西アジアに覇をとなえました。
この西アジア、特にイラン(ペルシャ)は、特に私の興味をひく地域でもあるので、次にこの地を中心にして調べたことを書いてみたいと思います。