梅棹忠夫『文明の生態史観』をモディファイする 5 エマニュエル・トッドの家族史との連携 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 昨日は、北風が強く寒い一日でした。わが家のWifi も家の外部にある端子に長い年月風雨にさらされて内部が腐食したようであり、突然、ネットが数日使えなくなっていましたが、ようやく工事をしてもらって利用可能となりました。

 

 さて、今日は、モンゴルをはじめとする遊牧民族社会と農耕社会の接触が「家族」(family, Familie, sem'ia, 家)にどのような影響を与えたかを考えてみたいと思います。

 まず手始めに「家族」とは何か、それを研究することにどのような意味があるのかを、説明することとします。

 説明のために自分の家族を例にとることとします。

 私が子供のとき、家には9人が暮らしていました。私の父と母の2人、自分を含めた兄弟姉妹5人、祖父、それに病弱で未婚だった叔父の9人です。9人というとその規模(人数)が多いため「大家族」と言ってしまいたくなるかもしれません。しかし、これは基本的には「小家族」であり、もう少し正確に言うと、「直系的小家族」です。というのは、結婚した兄弟が一つの屋根に下に暮らしていたわけでは決してありません。おそらく江戸時代の初期には、結婚した兄弟は、生家を離れて別の家族として住むようになったはずです。いわゆる分家です。そして、分家の際には、幕府の方針である「分地制限令」によって、家督を継ぐ長男が財産を相続し、弟たちはまったく無一物ということはなかったとしても、田畑を所有することなく、家を離れることが制度的に期待されるようになりました。

 もとよりそのような百姓は、本百姓ではなく、本家(母屋)の小作人となるか、別に商売を始めるかするしかなかったでしょう。また江戸時代には(明治期のある時点以前には)、乳幼児死亡率が高く、人が生まれてから成人まで生き延びる率が約50%だったため、一人の女性が平均して4人の子供(男女)を生んでようやく人口水準が維持できるほどでした。そこで、例えば若い夫婦の家族がその年老いた祖父母の他に4人の未婚の子を抱えるような、8人家族からなる「(直系的)小家族」というのは珍しいことではありませんでした。もちろん、その他に、夫婦と未婚の幼児2人の計4人だけというような小規模家族もありえました。

 実を言うと、江戸時代(天保年間)における私の家がどんな様子だったか、宗旨人別帳から調べたことがありましたが、まさにそのような小家族(核家族)でした。30歳台の夫婦とまだ幼年の男女2人だけです。この男子と女子がその後、どうなったかを正確に調べることはできませんでしたが、様々な史料から推測すると、男子は家督を継ぎ、女子は結婚して家を離れたようですが、この男子には跡継ぎの子ができず、そこで同じ村のある家から次男を養子にしたようです。そして、その養子夫婦の一人娘が私の祖母であり、別の家から婿として入ってきたのが祖父となりました。

 このようなあまり他人の家族事情など多くの人の関心をひかない話をしたのは、当時の日本では養子や婿養子が相当あったことを具体例で示すためでした。平均して2人しか成人しないような社会では、家族間で人の「多寡」が生じます。ある家では相続できない弟をかかえ、別の家では相続する男子がいないというようなことが頻繁に生じました。このような時に養子、婿取りというのはかなり便利な制度です。村全体では、デコボコが均されるからです。

 しかし、このような「分地制限令」が村社会レベルでも実施されるような社会では、人口が増加すると大きい社会問題が生まれてきます。土地を受け取れない人々が増え、それが大きい社会層のプールを形成するからです。実際に、日本と同じような家族制度を持つイングランドやドイツなどでは、農村に土地を持たない奉公人や「小屋住み」(Koettler, cottagers)の社会層が生まれ、大問題となりました。こうした社会層が消失したのは、国の産業化が進み、都市の諸産業がこれらの層を吸収してからでした。

 

 ところが、こうした家族制度を持たない国や地域、まったく異なる家族制度を持つ国・地域がユーラシア大陸には存在しました。また現在も存在しています。そのような家族制度というのは、少し図式的に言うと、次のような特徴を持っています。

 1,原則として家族財産は、家全体の共同財産であり、子供たち(息子たちのみ、あるいは娘を含む)の間で均等に分割されるか、均分相続される。特定の子にのみ相続されるような形式、例えば「長子相続制」(primogeniture)は、排除される。

 2,家族は、一定の規模に達すると、家族成員が同意して、分割される。しかし、家族成員が求めなければ、かなり大きい集団にまで拡大することがあり、その場合には、結婚した兄弟が一つの世帯(戸)を形成する。ただし、その共住のありかた、食事の共同の有無等はその時々の地域的な事情による。(このため、ユニットとしての家族は、かなり小規模なもの(核家族)から20人~30人といったかなり大規模なものまで認められることになります。しばしば人類学研究を行う観察者は、以外に小規模な家族が多いことから、「小家族」が支配的と断定してしまうことがありましたが、これは致命的なミスというべきです。)

 ここでは、こうした家族類型を「父系共同体家族」または「共同体家族」と呼ぶことにします。

 

 この家族形態は、生存手段が豊富にある場合には、例えば広大な遊牧地がある場合や、まだ開墾されていない土地が豊富にある場合には、なんの問題ももたらしませんでしたが、開墾がしだいに進み、土地の「不足」が感じられるようになると、一つの選択を迫られます。というのは、それに対処する方策は、結局のところ、A)土地分割を制限するか、それとも、B)土地を細分してでも、均分を実施するか、のいずれかしかないからにほかなりません。

 ちなみに、日本の場合には、(沖縄や鹿児島県などを除いて)基本的にAが選択されてきました。この慣行は、鎌倉時代あたりから、百姓からのレント(地代)収入で生活していた武士層の間で採用されはじめ、室町時代に一般化しました。そして江戸時代の初頭(1680年代)に村落レベルで実施されることになりました。

 

 しかし、世界的にみると、このような選択(A)は、どこでも採用されたわけではありません。ユーラシア地域だけみても、Bを選択した地域が多くあるからです。ここでは、エマニュエル・トッドがユーラシア大陸レベルの便利な分布図を作成しているので、それを利用して見ておくことにします。ただし、これはたった今現在の状態というよりは、それぞれの地域が近代化する前、例えば19世紀頃から~20世紀前半頃の状態とかんがえてください。

 下図が示すように、ユーラシア大陸には、大きく言って4つの「共同体家族」の地域が認められます。

 一つは、東アジアであり、中華文化圏です。この地における家族と相続慣行については、近代以降に実施された様々なフィールドワーク調査があり、中華圏の家族類型が均分相続と「共同体家族」にあったことは間違いありません。

 第二の地域は、このブログ記事でも触れたロシアを中心とする地域です。この地域については、19世紀からドイツ人歴史家による研究(「東方研究」)が行われており、その代表的な一つの研究は、Werner Conze(ヴェルナー・コンツェ)によるものです。彼の研究は、主に農夫から地代を搾取するための基礎となる土地台帳にもとづいておこなわれていますが、西方のドイツ人の農民家族がAの「直系小家族」だったのに対して、白ロシア/大ロシアの農民家族がBの「共同体家族」類型に属することを、疑問の余地なくしめしています。

 第三の地域は、インドですが、インドといっても、南部のドラヴィダ人居住地域は含まれておらず、主に北西部を中心とする地域(つまりインドヨーロッパ系の「アーリヤ人」の植民した地域)にあたります。こうしたインドの家族も、家族財産共有制にもとづく大家族がかつて支配的であったことは、私が読んだことのあるいくつかの研究書で指摘されています。

 第四の地域は、西アジア、特に現イランから現イラクの地にかけての地域です。この地域についての私の地域はとぼしく具体的なイメージを持つことができないのですが、ただ後で触れる機会があるかもしれませんが、これらの地域は、同族内婚的な性質が強く、またいくつかのトルコ朝の地域だった土地の家族が均分相続を特徴とする共同体家族であったことをはっきりと示す史料を見たことがあります。

 その他にも、サウジアラビアの紅海沿岸部、バルカン半島(セルビアなど)、北アフリカ(地中海沿岸地域)でも、「共同体家族」が広がっていたことを、トッドの地図は示しています。

 

 さて、こうした家族類型に関する分布図を見て、すぐに気づくことがあります。それは、共同体家族(B)がステップ草原に直接に隣接しているか、近い土地に分布していることです。いくつかの例外ないわけではありませんが、ここまで一致していることに我ながらあらためて驚くほどです。

 これに対して、ステップ地域から遠く離れているか、B地帯の楯によって守られた地域では、「小家族」または「核家族」(B)が成立したことがわかります。

 これは決して「水利」や降雨量の多寡などの生態系的条件とはほとんど無関係です。唯一の生態系的条件は、ステップ地帯からの距離であり、その地が遊牧民社会とどれほどの距離を取ることができたか、にあります。

 

 このように言うと、もしかすると、ではそのステップ地域自体の家族類型はどうなのか? という質問が出てくるかもしれません。下図では、この地域に典型的な家族類型は「一時的父方居住を伴う核家族」となっています。

 核家族? それならば、むしろ西欧の中でも、個人主義的なイギリスやスカンジナビアの核家族に近いではないか? という疑問が出てくるかもしれません。遊牧民社会が<子が親の支配から離れる核家族>なのに、その影響を受けたはずの地域が「共同体家族」、しかも<強い父権を特徴とする共同体家族>というのは、奇妙だとも考えられます。

 いったいどう考えればよいのでしょうか? 

 しかし、これは私には奇妙でも、謎でもありません。理由は簡単です。それは遊牧民族に関する民族誌・民俗誌をよめば氷解します。例えば梅棹忠夫さんの『回想のモンゴル』に描かれている現代モンゴル人の家族についての説明からもよくわかります。

 遊牧生活というものは、飼育している動物(羊など)の移動に合わせた生活様式です。寅さんではありませんが、草原の食料(草)を追って動物が移動するのに合わせて人も移動します。それは人々が一つの場所に大きい集団を作ることを許しません。したがってある時期の若い夫婦が未婚の子供を抱えていても、彼らが自立すれば、適当な数の畜群を与えて(ほぼ均分)、遊牧生活に放り出します。子供は馬車に詰めるほどの家財を持ち、羊群を遊牧させながら、自分に許された領域内を遊牧して暮らすことになります。農耕社会に住む人々がその高い土地生産性のために集まり、村落を作り、町を作り、都市を作るのとは事情が異なります。梅棹さんも認めているように、モンゴル遊牧民は小規模な集落(ホトxoto)を作ることも珍しく、多くの場合は、一つのゲル(パオ)に住みます。しばしば人家という意味で「アイル ail」という言葉が使われることもありますが、それは複数のゲルがあるというにすぎず、そのゲルにはしばしば一家族が住んでいます。たまに力の乏しい別の家族が豊かな家族を頼って隣に住むことはあっても、それが固定的な集落をつくるわけでもありません。こうした関係は、英語の association という関係に近く、ある時は事情によって共住しても、事情が変われば、自由に離れてゆく。これがかれらの関係であり、言ってみれば、かなり「アナーキー」な感じがします。

 ちなみに、梅棹さんの書では、モンゴルには「氏族」と呼んでよいような団体もあるということですが、現在の若い人には、自分がどの氏族に属するのか知らない人も多く、年長者からからかわれる場合もあると書かれています。

 ともあれ、ここには、ステップという生態系的条件と関連する生活様式があり、それに適合的な家族類型があったことは間違いないと思われます。それはかなりルーズであり、アナーキーともいってよいかもしれないほどに自由でアソシエーション的な人間的つながりがあり、またその生活条件から多くの人々が一つの場所に集まることを阻止する要因があったと思われます。ただし、太古からの兄弟の平等(均分)は、ルーズながら保たれており、それがイングランドやドイツの長子相続制とは180度相違するものだったことも注目されます。(もっともモンゴル帝国時代のように、条件次第では、彼らは集合して軍団を組織しえたことも忘れてはなりません。それは条件次第だったと思われます。)

 

 

 ここで、「共同体家族」を生み出した地域における事情に戻ります。

 彼らが共同体家族にしがみつかなければならなかったのは、結論的に言うと、太古からの家族成員にあった自然的な平等性や共同性というよりも、遊牧系または非遊牧系の征服王朝、そして自民族の王朝の苛斂誅求に対して連帯責任を負わせられたという貢納事情に由来したのではないかと疑われます。

 実際、<貢納・納税に対する連帯責任>という用語は、かつてこれらの地域では頻繁に使われていました。その証拠となる史料はここでは割愛せざるを得ませんが、もしそうだとすると、人民の間に根づくことになった平等主義は、他方では権威主義的な支配とも結びついていたことになります。かくして、かつての王朝に特徴的だったのは、権威主義的な平等主義だったということになります。

 

 私の意見では、(トッドさんも同じ意見のようですが)、問題があり、それは、これらの社会が近代化を迫られたとき、かなり深刻な事態を経験しなければならなかったことです。

 一つは、民衆の間に燃え上がるような「平等主義的」な要求が生じたことです。それは特にロシアと中国で激しく燃え上がり、土地を平等に配分することを求める激しい農民運動を惹起したことです。これに対して、政府は、民主的な政府であろうと、権威主義的な政府であろうと、その求めに応じなければなりませんでした。これは、マックス・ヴェーバーも論じているように、西欧社会や日本社会では経験したことのないようなかなり厄介な問題でした。

 もう一つは、この平等主義的要求を実現することは、必ずしも国を近代化させることに寄与しないばかりか、近代化や工業化を妨げる傾向=危険性があったことです。

 しかし、これらの国の知識人や政治家は、他方で、自国を近代化する道をも探っていました。こうした矛盾した状況の中で、これらの国々(中国、ロシア、イランなど)は、西欧社会や日本では経験したことのない政治的激動にさらされます。またこれらの地域に対して欧米社会が自分たちの社会と大きく異なるから「正す」といって干渉してきたことも事態を複雑にしてきたことも否定できません。

 しかし、ともあれ、20世紀末から21世紀にかけて事情は大きく変わり、現在、これらの国・地域は、BRICSとして成長・発展を遂げてきています。たしかに制度というものは、簡単に変わるものではありませんが、しかし、不変固定のものでもなく、徐々に変化してゆきます。平和で安定した社会を作っていくためにも、私たち自身が冷静に自分も相手も見てゆくことが必要と思う所以です。