政治体制の変化 権威主義的民主主義(ロシア)/一党制(中国)/イスラム共和制(イラン) 1  | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 梅棹忠夫『文明の生態史観』にヒントを得て、ステップ(草原)の遊牧民社会に直接隣接する地域に、かつて、専制主義体制(家産官僚制)が生まれた事情を考えてきた。

 もちろん、現在、これらの地にかつての専制国家体制は存在しない。19世紀末から現在までに、それぞれの地域がそれぞれの特有のコースをたどりながら、特徴的な政治体制を持つにいたっている。このうち、ロシアは、ソ連体制という一種の国家社会主義的な体制を70余年にわたって取りながら、1991年に民主的な憲法を持つにいたった。しばしばその権威主義的性格が指摘されるとはいえ、自由な選挙で国会(Duma)の議員も大統領も選ばれており、それを「権威主義体制」と規定することはできない。

 中国も1949年以降、ソ連体制とは異なる特徴を持つとはいえ、一種の国家社会主義体制を生み出したが、1980年代の鄧小平時代に市場経済(というより資本主義経済)への大転換を果たしてきた。現在、その実質GDPは、すでにアメリカ合衆国の実質GDPを越えていると推測されている。しかし、ロシアと異なって政治的な民主制は達成されていない。

 このようにロシアと中国は、ある点では類似しながら、別の点では異なる経過をたどってきたといってよい2つの大国である。

 実は、この2つの国は、共通する側面を有していた。家族史家のエマニュエル・トッド氏の分析に依拠すれば、二つの国の農村社会は、ともに父系的な(または父権的な)「共同体家族」制度を特徴としていた。共同体家族というのは、ある夫婦のもとに生まれた兄弟が家族財産に対する厳格な均分相続(または均等分割)の権利を持つことを意味する。ただし、両国には、若干の相違点がある。まず中国では、家族の上位に位置する団体として「宗族」(父系のリネージ)があり、それがより広い意味の「共同体家族」をなしていた。これに対して、ロシアでは、双系的親族組織のために「父系的リネージ」のようなものは存在しなかった。この点では、ロシアの農村社会は、ヨーロッパと同様に、耕地共同体制度(村落共同体)を特徴としてた。しかし、このロシアの耕地共同体の内部の編成原理は、西欧の共同体とは著しくことなっていた。つまり西欧では、形式的な平等原則が貫かれており、共同体内の各農家(世帯)に一律にフーフェ(15ヘクタール内外の耕作地)が与えられており、各世帯はその土地をなるべく分割せずに次の世代に伝えてゆく義務を負っていた。これに対してロシアでは、フーフェの観念が欠如していただけでなく、形式的平等の原理に反する「実質的平等」の原理が働いていた。この原理は、とりわけ人頭税などの納税に対する村の連帯責任が生じると、耕地が共同地の共有地と意識され、時々、人頭に応じて土地を配分しなおす慣行(土地割替)を生じさせるに至った。これがいわゆるロシアの耕地共同体の「土地共産主義」制度と呼ばれるものである。ただし、これはロシアに限られた制度ではなく、江戸時代まえの沖縄の地割制度や、トルコ支配下のエジプトなどでも見られたものである。

 ともかく、2国は家族や拡大された共同体の内部における厳格な平等分割(均分)の制度を持つという点では共通していた。

 しかも、両国には次のような類似した状況が20世紀初頭までに生じるに至った。それは、人口がかなり急速に増加し、その増加に対応するほどの土地余剰がなくなったことである。「土地不足」あるいは「農村過剰人口」を意味する言葉が二つの社会に現れてきた。さらに次の事情が加わった。それは両国とも、土地不足に苦しむ貧農のかたわらに、相応に大規模な地主階層が存在し、貧農層から「レント」(地代)を得ていたことである。ここで、経済学の初歩にある需給法則を思い出すとよいかもしれない。土地不足が深刻化するほど、借地料が上昇したのである。

 こうしてロシアも中国も農村に火薬庫を抱え込むことになった。これはヨーロッパでも、日本でも経験したことのない事態であり、われわれには理解しづらいかもしれない。

 ともかく、ロシアも中国も農村に平等な土地配分を求める大規模な農民運動が生まれた。ロシアでは社会革命党(SR党)が、中国では中国共産党(農村を拠点とする毛沢東派)が、国の運命を決める一大勢力となったのである。その後のソ連政治権力を得ることになるロシア社会民主党(ボリシェヴィキ派)は、都市の一部分の支持を得るだけであり、この巨大な農民運動の支援がなければ政権につけなかったであろう。他方、中国では、毛派は、初発から都市勢力をあてにしていなかった。

 しかし、平等な土地配分を求める農民運動がいくら背後にあったとしても、政権について巨大国家の政府がいつまでも小農民国家でいることは不可能である。ここから、ロシアでは、1929年から「開発独裁」流の工業化政策が実施に移され、凄まじい惨事を生みながらも、工業化が達成される。この時、ロシアが完全に資本主義経済から遮断された状態で工業化を達成したわけでは決してなく、様々な方法で欧米の先進技術を取り入れていたことは、秘密でも何でもない。それはともかく1941年までにはナチス・ドイツの進軍を止め、反転攻勢をかけるほどにまで経済を成長させることに成功した。

 これに対して、1949年に権力についた新中国政府は、1970年代までいくつかの失敗に終わる痙攣的、絶望的な試みに挑戦したのち、1980年代に鄧小平の指導下で資本主義諸国の経済に接合し、その後、いくつかの段階をへて工業化に成功する。

 では政治体制についてはどうだろうか? 一つの意見では、資本主義的発展に成功した多くのかつての開発独裁体制(権威主義体制)がやがていつか民主化するように中国もやがて民主化するだろうという意見がある、こうした例は、例えば身近なところでは、すぐ隣の国に見られ、1970年代まで軍事独裁政権色の強かった韓国が1980年代に民主化した例を思い出せばよいだろう。日本については、明治憲法体制についてどうみるかという問題があるとはいえ、その絶対主義的体制が終わったのは、やっと1945年8月の敗戦後のことにすぎない。しかし、かつてイラクのフセイン体制が米軍によって軍事的に打倒されたのち、期待されたような民主政体も成立せず、ただただ社会が混乱、崩壊、腐敗、しているだけという状況もあり、事はそれほど簡単ではない。ある体制を成立させている条件は、人が(特に西欧人が)考えるほど単純なものではない。 

 

 ともあれ、こうした世界経済史上の大転換をざっと概観してみるだけでも、2つの大国がわずか100年ほどで平等主義を求める激しい農民運動に答えることからはじめて、権威主義的な体制の下で工業化の達成という大転換をなしとげたことに驚きを禁じえない。しかも、ロシアに至っては、国家社会主義体制を本質的にはみずから解体したのである。ただし、ソ連体制というと、多くの「西側」の人々は、そこに何らのポジティヴで、積極的な側面を認めない傾向があるが、それにもかかわらず、かなり短期間にほとんどの女性に初等・中等教育を施し、また多くの人々に高等教育を施すに至ったエネルギーを考えないわけにはいられない。また同じことは中国についても言うことができる。現在の中国の若者は、もはや科挙の試験をうけるために記憶力を鍛え、文学的才能を磨くことに時間をついやしてはいない。

 

 エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』より。

 

 ここで、もう一つ気になるのは、イラン(かつてのペルシャ帝国の地)である。

 この地は、トッドの家族史地図では、ロシアや中国と同じ「均分相続」と「共同体家族」の地とされている。それならば、ここでも平等主義的な土地要求を掲げる急進的な農民運動はあったのだろうか? どうやらそうではないらしい。

 

 おそらくイランと聞いて多くの人が思い出すのは、1925年から1970年代末までかなり権威主義的な「ハーフレヴィ王朝」(Pahlavy Dynasty)が続いていたが、1977~1979年の政治運動の亢進の中で、シャー(国王)が米国に逃亡し、「イスラム共和制」が成立したことではないだろうか? 「イスラム共和制」と聞いて、人はどうイメージするだろうか? 私にとってもこれは依然として謎のままだが、どうやらそれをもたらした政治運動は、ほとんどもっぱら都市におけるイスラムの運動であり、都市住民の運動であったらしい。ロシアと中国では主役を演じていた農村住民の姿はここにはほとんど見られない。

 中東という地域は、私にとって、決して慣れ親しんでいる土地ではなく、アラビア語もペルシャ語もまったく不案内なため、もっぱら英語文献に頼らざるを得ないが、ともかく、この地で20世紀に何が生じてきたのか、調べてみたい。