このブログで何度も強調しているところですが、日本の比較言語学者やその他の研究者の中には、現在話されている日本語が弥生時代に大陸から日本列島に持ち込まれた言語とアプリオリに断定した上で、議論を進めている人が多いように見えます。しかし、世界の他の地域でも、ある地域に先住者とは異なる言語を話す集団が移住(侵入、侵略などなど)してきたとき、必ず後から移住してきた集団の言語が先住者の言語を駆逐し、定着するとは限りません。そのような場合には、様々なケースが生じることは、実は、ヨーロッパでもかなりよく知られています(実証されています)。
その中でよく知られているかもしれませんが、あえていくつかの事例を簡単に紹介したいと思います。
まず現在のフランスの地。ここは、古代ローマ人が征服する前は、ローマ人がガリア(Galia)と読んでいた土地であり、ローマの支配が及ぶ前も後も、大陸におけるケルト人(Celts)の主要な居住地の一つでした。ここでは、ローマの支配力がかなり強く、言語もラテン語が主となったことはよく知られています。しかし、言語が交替した後も、ケルト語の影響は、発音・音声の面では強く残り、そのため現在のフランス語にもとりわけ発音の面にその影響が強く残っています。フランス特有のアクセント(最後の音節を強く発音するなど)、ラテン語の5母音をはるかに越える数の母音の種類などに、それが強く感じられます。これに対して、ラテン語の発祥の地・イタリアでは、ラテン語本来の5母音(実際には、狭い e,o と広い e, o があるため、7母音)が続いています。
次にイギリスですが、ここではローマ人の支配はフランスに比べれてもっと弱く、5世紀までケルト人(ブリトン人、Britons)の言語は残りました。ところが、5世紀の中葉に激動が生じます。簡単に言えば、現在のデンマークあたりにそれまで居住していた西ゲルマン部族の集団(ジュート人、アングルー人、サクソン人)が強大な武力をもって侵入してきました。当初、ブリトン人の長Chieftains)は、ローマに救援を頼みましたが、446年には、ついにその救援の来なくなりました。ローマから見れば、他の地域の救援に出かける余裕などまったくなかったわけです。その後にブリテン島に生じたことは、8世紀の修道僧・Bede の書いた『歴史』に詳しく乗っていますが、上記ゲルマン人3集団によってブリテン島の各地に彼らの王国が打ち立てられるに到ります。もちろん、これらの侵入・侵略者たちが彼らの言語(アングロ・サクソン語)をブリテン島にもたらしたことは言うまでもありません。ここに古英語(Old English)が成立します。ただし、ここでも、先住のブリトン人の話すケルト語の影響がまったく消え去ったわけでもなさそうです。それは、フランス語の場合と同様に、発音・音声・アクセントの面で見られます。今日の標準英語(RP英語、BBC英語、キングズ英語)でさえ、複雑な母音を特徴としていて、日本人の英語学習者を悩ましていることは言うまでもないことですが、ましてやイギリス各地のアクセントには閉口させられます。
おそらくロシア語についても同様な歴史を語ることができるでしょう。彼らの祖先は、10世紀頃には現在のウクライナの首都・キエフ(ウクライナ語では「キーフ」のような発音)に居住していたものの、ある歴史的事情によってモスクワやその北の東北地域に集団的な移動をおこない同地を開墾してきましたが、そこにいた先住者(ウラル系、エストニア系)の言語の影響を受けた節があると言われます。その影響とはどんなものか、詳しく説明する余裕はありませんが、その影響の除けば、東スラヴ語としてのロシア語が先住者の言語に置き換わったことは間違いありません。
後から移住して入った集団の言語が先住者の言語を駆逐する例は、その他にも多いことは言うまでもなく、近い事例では、例えば16世紀の宗教改革の一大イベントの後に、イギリスから北アメリカ大陸に多くの人が渡り、そこで英語を広めたことをあげることができます。イギリス系移民が英語を捨て、先住アメリカ人(Native Americans)の言語を話すようになるなどということは、想像することさえ難しいでしょう。
しかし、これとは逆に、移住者が彼らの本来の言語を捨て去り、移住先の人々の話している言語に鞍替えするという事例も多数あります。このようなことが生じるのは、彼我の人口差や、文化的発展の差、産業技術の差などによるところが大きかったはずです。歴史的事例として、きわめてよく知られているのは、東アジアでしばしば観察されたようなイベントです。ここでは、北方にツングース語やモンゴル語などの膠着語を話す集団(遊牧民や狩猟採集民など)が居住しており、様々な歴史的事情によって、それより南方に居住する漢語話者集団の地域に移動・移住するということがありましたが、それらの集団の多くは、いつの間にか、漢語の話者に転じています。遠くは後漢と晋の王朝が崩壊した後の北朝の中心となった集団や、隋・唐の政権中心部を構成した集団、近くは清朝を生み出した満州族の場合などが、これにあたります。
したがって、紀元前2000年頃から、また紀元前1000年頃から、おそらく地球規模の気候変化に刺激されて、東アジア諸集団の地域間移動があったからといって、移住した集団の言語が必ず移住先に住む先住集団の話していた言語を駆逐し、置き換わるということは、少なくともアプリオリに想定することはできないはずです。それは条件によるというしかありません。
つまり日本語の起源を探る場合には、そもそも移住がどのような状態のもとで生じたのか、様々な面から詳しく検討してみる必要があります。
まずきわめて明確なことは、先にあげてブリテン島へのアングロ・サクソン族の侵入のように、強力な軍事組織または軍事組織を持つ政治集団が大挙して日本列島に侵入してきたという事態を示すような考古学的証拠はまったくないことです。これについてこれまでの考古学研究の描く事態は、次のようなものでしょう。
たしかに、いわゆる縄文人とは異なる形質を持った人々(弥生人)が日本にやってきたという事実は、否定できません。古人骨の計測学などが示すように、例えば縄文人より背の高い人々が日本列島にやって来たことは間違いない事実といえます。そうした計測学的な差異は、突然変異や環境(農耕開始による食料事情の変化)では説明されません。一方、それらの渡来人が大挙してやって来たことを示す証拠も、それが強力な軍事組織(武装)を持っていたことを示す証拠もありません。しかも、最初に認められた計測学的な差異は、やがて時間の経過とともに失われています。これは、新たに移住してきた人々が相対的に少数であり、かつ平和的に(平穏に)先住者の社会にやがて同化されていったことを示すものではないでしょうか?
もっとも、縄文社会が継続したことを強調する論者がしばしば主張しがちなように、外からの移住者の数が無視しうるほど少数であったわけではなく、また彼らは農耕を行うが故に相対的に高い人口増加率を特徴としていたと考えられますので、長い時間経過の間には、人口を(先住者集団より)かなり増加させる可能が高いと想定されます。以上の二つの想定(渡来者の先住者の社会への同化と、渡来者集団の(先住者集団より)高い人口増加率)は、必ずしも両立しない側面を持つかもしれませんが、ある適度な範囲内では、成立するとも考えられます。そのシミュレーション(計算)は、簡単ではありませんが、渡来系集団が農耕によって急速に人口を増やしながら、また他方では、先住者社会としだいに統合しながら、やがて先住者集団の人口を農耕に巻き込むことによって、その人口を増やすというシナリオがありえないわけではありません。ありえないというより、むしろそれが妥当でさえあるように見えます。
縄文人も現生人類であり、言語(縄文語)を持った集団であることは否定できない明白な事実といえます。ところが、何故か、「日本語の起源」ということになると、あたかも何も書かれていないタブラ・ラサ(白紙)の上に渡来人の言語をはじめて書くかのような説明をすることが見られます。このような見解を脱構築することが、まずは最重要ではないかと思うしだいです。