日本語は、膠着語であり、後置詞(格助詞)を名詞の後に置いたり、述語(動詞句など)を必ず文末に置くという約束をもつ言語ですが、その他に発音上、つまり音声学的にも特徴的な言語であることは言うまでもありません。特にその点での英語との距離は、きわめて遠く、中学生のときから英語学習に苦労してきた人が多いのではないかと思います。母音や子音の発音の他に、アクセントの相違も大きい相違点のひとつをなしており、それが苦労する理由の一つになっています。最近は、英語が国際語になるにつれ、インド英語やアメリカ英語にとどまらず、オーストラリア英語、フランス英語、タイ英語など、世界の様々なアクセントがネット上でも飛び交っているので、私などもそれらを聞き取れるように悪戦苦闘しています。
それはさて、日本語の発音の特徴の一つは、音節(より正確にはモーラ mora というべきか)を一つずつはっきり発音し、その際、同じ時間配分・速度で発音する点にあります。また、その際、「ん」も1つのモーラを形成するために、舘山寺(かんざんじ、kaNzaNji)のように発音します。決して "kanzanji" ではありません。横須賀は、yokosuka であり、決してアメリカ人が発音するように断じて "y’KOOsuka" (イコースカ、?コースカ)などではありません。
しかも、このモーラは、高いか低いかいずれかのアクセント(ピッチ・アクセント)を持っています。大体において、東日本では、二音節語の場合、第一音節が低く、第二音節が高くなる傾向があるようですが、もちろん、逆もあります。
山(yama) 低高 川(kawa) 低高 水(mizu) 低高
腹(hara) 低高 紙(kami)低高 神(kami)高低
髪(kami) 低高 栗(kuri)低高 土(tuti) 低高
本(hoN) 高低 ペン(peN)高低 坂(saka)低高
このようなアクセント体系を持った日本語ですから、日本語にどっぷりつかった中学生が英語を学び始めた時に、すぐに綺麗に発音できる訳もありません。もちろん、逆も逆で、イギリス人などが日本語の「超長い」と彼らが感じる日本語単語を綺麗に発音でる訳もなく、私の超長い(?)名前(yoshiYUUUki)をイギリス人たちは決して発音もできなけば、覚えることもできませんでした。(ちなみに、長い単語になれているロシア人は割合すぐに発音してくれます。)
この辺から本題に入りますが、こうしたピッチ・アクセントは、何時の時代にはじまったのか? これは当然研究者たちの研究テーマになってきました。ただ外国語に同系語の語彙を見つけようとすることに必死だった比較言語学の研究者は、あまり関心を持たなかったように見えます。私が読んだことのある文献も、小泉保氏の『縄文語の発見』だけです。
そこで、以下では、その要旨を説明し、簡単な感想(と愚見)をつけ加えることにします。
小泉氏の見解の骨組みは、簡単に言えば、次のようにまとめることができるでしょう。
1)3000年前より先の時代に話されていた縄文語は、無アクセント(ただし、これは高低アクセントに限定した見解であり、必ずしもストレス・アクセントについてではありません)であった。
2)弥生時代に入り、渡来人(漢人)が日本列島に移住してくると、彼らの言語の影響(漢語の声調、現在の北京語の4声のような音の高低、上昇、低下のアクセント)を受けて、日本語に高低アクセントが生まれる。この高低アクセントは、渡来人集団の移動とともに九州縄文語から近畿縄文語へと拡大した。
3)一方、東日本では、西日本に広まった高低アクセント言語(弥生語=縄文語+高低アクセント)に「対抗」して、高低アクセントの言語が広まった。しかし、この対抗関係の中で、高低アクセントの型は、東日本では逆になるケースが多かった。例えば、石(stone、ishi)は、西日本では<高低型、いし>となるのに対して、東日本では<低高型、いし>となる。
4)またこのはざまの中で、無アクセント地域が福島県を中心とした地域や宮崎県を中心とした地域などに見られる。しかし、これらの無アクセント地域は、後に言語発展の結果、生まれたのではなく、本来の縄文語の性質を残す地域ということになる。
私の感じるところでは、これは多くの研究者の一致して支持するようなものではなく、小泉氏の直感的なフィーリングまたは仮説のようなものであり、決して確実な証拠によって実証されているようには思えません、それは次のような点からも言えるように思えます。それは、上の3)についてですが、小泉氏は、「近畿地方から拡大進出する弥生語に反応して東京式のアクセントが発生したと考える」とか、「無アクセント地帯(つまり東日本)が高文化圏の京阪アクセントと対決したとき、語頭の「高低」を「低高」と逆にして受容したことになる」と述べています。
しかし、「反応」「対決」とはいったいどのような事態でしょうか? これは、当時の東日本人が<あまのじゃく>だったとでもいうのでしょうか? 「アクセントを持った言語が広まってきた。俺たちもアクセントを取り入れるが、そのままでは癪にさわる。くやしいから、逆にして取り入れよう」とでも言うのでしょうか? よくわかりません。ともかく、決して説得的に説明されているとはいえません。その上、もし対決を考えるならば、まず最初にアクセントを持つ弥生語が九州で生まれ、それが本州に入り、近畿にまで達するまでに、そのような対応や対決はなかったのでしょうか? 高低と低高というアクセント差を対応、対決という一語で済ませるだけでは、読者を納得させることはできない相談ではないででしょうか?
またそう考えると、漢人の言語の影響(声調)が縄文語にピッチ・アクセントをもたらしたということも、すんなり受け入れることができるわけでもありません。そもそも声調は、一つのモーラについて起こる複雑なミュージカル・アクセントであり、漢語やその他の孤立語方言によっては、6種類~8種類もあるようです。それが各モーラの声調ではなく、複数モーラの<高か低か>を区別するだけのピッチ・アクセントに変わるメカニズムも機能もはっきりしません。
したがって、多くの先学(服部四郎、金田一京助氏など)がなしたように、本来の日本語にピッチ・アクセントは備わっており、その体系に西日本式と東日本式があったと考える方が自然なように感じられます。この説では、例えば二音節語の場合、西日本では、前半が高く、東日本では後半が高かったと考えることができます。この差異は、縄文時代に遡る差異だった!
またこの説でも、無アクセント地帯がなぜ生まれたのかという疑問が生まれますが、アクセントの発展の中で無アクセント化したとか、様々なアクセント地域のはざまで無アクセント化したということが考えられますが、この点についても、多くの人を説得できる証拠があるわけではありません。ですが、総合的に考えて、声調の影響という考えが却下され、また西日本に対する東日本側の対応・対抗という考えがほとんど根拠を却下あるならば、すでに縄文時代にピッチアクセントは行われており、しかも、その際、縄文社会の本場=東日本では、現在のフランス語と同じように後半のモーラにアクセント(高)が置かれており、弥生文化の中心地=西日本の前半にアクセント(高)が置かれる<しゃれた>言語が伝わってきても、縄文本来の伝統を守ったというのが真相に近いのではないかと思います。そして、もしそうならば、無アクセント化は、そのような相克の中でいくつかの地域に限って生じた可能性があるとも思われます。もしかすると、下図からも見られるように、無アクセント地域は、異なったアクセント体系の地域に挟まれた地域で生じたとも考えられます。
小泉説の図示 服部・金田一説などの図示