これまで何回か書いてきたように、私は、現在の研究成果、特に考古学の研究成果に依拠して、倭国が西日本全体の諸国の連合体となっており、一人の倭王をいただいていたと考えている。くりかえすが、これは私の意見というより、考古学者のほぼ全員の意見である。したがって倭国の王都は、近畿にあり、その中でも大和国の三輪山の付近、端的にいって纏向遺跡のあたりが候補地として有力、あるいはほぼ確定と考えている。ただし、100%とはいわない。わずかながら、他の地の可能性も残されているというのが、学問の姿であろう。
ともあれ、奈良盆地が王都であったことは、いくつかの資料の複合から明らかとなりつつある。
一つには、魏志倭人伝の行程記事が北部九州説でも、大和説でも、矛盾している点にある。陳寿自身が自分自身を納得させようとしているように、彼にとって邪馬台国は会稽郡・東冶県(会稽郡治)の東方海上にあったのであり、それは九州の南方海上にあることを示している。
第二に、考古学研究は、まさに3世紀中葉に大和国を政治的センターとする前方後円墳体制が成立したことを明らかにしてきたからである。この体制にあっては、方形による序列(前方後円墳→前方後方墳→円墳→方墳)と規模による序列(大→小)が制度化されており、その中心が奈良盆地にあったことは疑いない。それに続くのは、瀬戸内海沿岸の吉備国あたり、そして北部九州地域である。また奈良盆地では、3世紀中葉以降も、首長墓と目される大形古墳の造営が続いている。
第三に、あらためて魏志倭人伝に戻ってみると、当時の倭国が決して北部九州地域の狭い地域に制限されないことを示す記述があることに気づく。その記述とは、一つは、当時の倭国が韓国(馬韓と弁辰)の方4千里をも超える方5千里の超大国として描かれており、その戸数(15~16万戸)も韓国をわずかながら超えている。もう一つは、あまり言及されることのない次の記述にある。
「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治し、国中において刺使の如く有り。」
刺使とは、中国の州に置かれた州を観察する役職であり、王都におく司隷校尉ではない。このことは、伊都国を中心とする北部九州がそこから離れた王都の検察下にあることを示す(渡邊義浩『魏志倭人伝の謎を解く』の強調点)。
第四に、次の文章がある。「倭の地を参問するに、絶えて海中の洲島の上に在り、あるいは絶えあるいは連なり、周旋5千里可りない。」この文章から、対馬と壱岐が海中の洲島にあるではないかという人がいるかもしれない。しかし、この2島だけが島であり、他が連なっていたならば、陳寿は、2島が海中の島であり、あとの2国は連なっていたと書いていたであろう。「倭の地を参問するに」(倭国の地理を問いただすと)とあるように、陳寿は実際に倭国を訪問した使者に尋ねた結果の回答を知っていたと思われる。
もう一つは、倭国30国の国名である。このうち最初の6国については、海中の島であり、4国が北部九州沿岸部にあることは疑いなく、ほぼ全員が同意している。これらの6国については、9世紀以降に作成された倭名抄の令制国郡表にも載っている国(島)や郡の名前である。(ただし、不弥=穂波郡については、異論がある。)「ああ、それなのに、それなのに」といいたくなるが、それ以外の24国の国名を国郡表の中に発見することはできなくなる。実に不思議といえば不思議である。
北部九州説の論者は、ここでも苦労することになる。彼らは、投馬国の候補として妻郡を、また邪馬台国の候補として山門郡を見つけ出すが、それ以外の22国を見いだせない。そこで、手を出すのが禁じての郷名などである。しかし、周知のように郷は、後世に1000人ほどの集まりにつけられた名前である。これほどの規模の集まりを「国」と呼べるであろうか? しかも、3世紀半ばから9世紀までには人口はほぼ10倍に増えている。ということは、後に郷となる集落は、100人ほどの集落だったことになる。私は、後の郷名(またはその元となった地名や地形草木など)が3世紀にはまだなかったとは言わない。しかし、それを魏と使訳を通じていた国と同列に扱うのはいかがなものか? しかも、北部九州説の呪縛から抜け出せば、国名はすぐに見つけられる。令制国郡の中には、魏志倭人伝の国名を彷彿とさせるものが多くあり、しかも、なんと、それらのほとんどは西日本に散在している。そして、敦賀湾ー伊勢湾ラインを超える東日本には、まず例外的にしか見いだせないのである。こうしたことが偶然では起こりえないことは、統計学的に示すことができるが、この紹介は後日ということにして、先に進みたい。私がどうしても見つけられなかたのは、華奴蘇奴国、烏奴国、狗奴国の3国のみであるが、残りの19は比定でき、しかも、これらの比定地には、多くの場合(例外あり)、大型古墳の所在、稲作に必要な洪積平野の存在、海運・交易路上の重要地点という重大要素がついている。(これらの比定地がすべて正しいとは言えないであろう。しかし、統計学的には、その多くが正しいと思われる。具体的な比定の方法については、後日を期したい。)
さて、この図では、倭国(魏に使訳を通じていた諸国の範囲)は、敦賀ー伊勢湾ラインのわずかに東側によっており、越と美濃を含んでいる。しかし、他のいくつかの地(有明海に面した佐賀県)にも当てはまるかもしれないが、特に伊勢湾沿岸から東海地方にかけての地に該当する国がみあたらないのが、少し気がかりである。というのは、伊勢平野や濃尾(美濃・尾張)平野、三河地方など、総じて東海地方は、後世に有力武将を輩出した地域であり、広い洪積平野をかかえた人口の多い土地である。ここに大きい国はなかったのだろうか、という疑問が出てくるからである。
この点については、考古学者の赤塚次郎氏がクナ国=濃尾平野を唱えており、そこに邪馬台国女王と「不和」であり、相攻伐した男王・卑弥弓呼素のクナ国があったと考えれば、よいのかもしれないが、後の令制国郡表には、狗奴(クナ)を連想させるような地名はない。いわゆる「国造本紀」には、久能国造の名前が東海地方に見られるが、この久能は、ずっと東の静岡県の久能山の地名にしか残っていないようである。
3世紀の倭国が、太平洋側では、いったいどの地を東端としており、そのさらに東側はどうだったのか、少し調べてみたので、その結果を次に記すことにしたい。(といったところで、以下は、次回とします。)