ブリテン諸島の集団形成史 Nature 誌(2015年3月)掲載論文より | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 近代の歴史は、言ってみれば、アングロ・サクソン民族の世界史といっても過言ではないだろう。それは現在のアメリカ合衆国の政治・経済・社会的な支配的地位を見ればよくわかる。かつてドイツの社会学者、マックス・ヴェーバーもその謎を解こうとして、一連の論文(その中にはあの「プロ倫」もある)を書いた。

 「謎」が近代史にあることは確かであり、それまでのイギリス(特にイングランド)は、どちらかといえば辺境に位置する後進国とみられていた。しかし、英国人が近代に突然飛躍したとしても、それ以前からそれを加納とするような何らかの要素があったのではないかという思想もないわけではない。かつてマクファーレンが述べたように、イギリス人の合理的、個人主義的なメンタリティは近代に突然始まったのではなく、すでに中世初期には存在していたという理解もそれなりに説得力を持っている。また近年では、エマヌエル・トッド氏(フランス人)がイギリス家族史研究の立場から、イギリスの個人主義家族は、歴史の中で生み出されたものではなく、最初から存在したものであり、むしろ近代になってから「祖先返り」(atavism)の傾向さえ示したと述べていることも注目される。

 私自身は、このトッド氏の思想は、行き過ぎであって、イギリスの個人主義家族が何らかの歴史的発展の結果として生まれたものであり、歴史の最初にあったというのは間違いと思うが、もとより、歴史の出発点に何があったかを見た人は一人としているわけではない。かつては出発点にあったのは「原始共産主義」であるという理解が支配していた時代があったが、今度は、真逆の個人主義家族ということになってしまったわけである。しかし、実際にはどちらでもなかったのではないだろうか?

 

 ともかく知ることのできない古代の事象について独断的な教義を説くことはやめて、もう少し科学的に認識できることはないだろうかと思うが、その一つが考古学であり、もう一つは近年急速に発展してきた遺伝子解析学である。

 この遺伝子解析について、8年ほどまえに興味深い研究結果を示した論文(2015年3月)が Nature 誌に掲載されている。この論文は、”The fine-scale genetic structure of the British population" という表題であり、ネットでも自由に読むことができるが、いくつかの点で従来の見方に変更をせまっている点でも、興味深いので、簡単に紹介したい。が、紹介の前に、いくつかの点を述べておかなければならない。

  file:///C:/Users/ysato/Desktop/Leslie_2015natureFineStructureBritish_genomics14230.pdf

 

 一つは、現生人類(ホモサピエンス)がブリテンに住みついたのは、それほど古い時代のことではなく、約1万年前に最終氷期が終わり、人が住むことのできる気候的条件が整ってからのことである。この時代に、おそらく黒海北方のステップ(草原地帯)に住んでいた遊牧民が西側に移動し、西欧中に散らばったらしい。現在のフランスの地からイギリスの地にかけては、後世にケルト人(Celtic population)と呼ばれるように集団が居住していた。

 もう一つは、この初期拡散が生じた頃、イギリスはまだ島ではなく、大陸と陸続きだったとされている。氷河期には現在より100メートル以上も海面が低くかったため、現在は海面下に沈んでいる土地の中には陸となっていた土地があったことは、世界中でよく知られているが、ヨーロッパでも事情は同じである。現在、ドーバー海峡は、最深部でも40~50メートルほどしかないが、ライン河河口の東側では特に浅く、現在のドイツとイングランド東部は陸で結ばれていた。どういう理由かは知らないが、現在、そのイングランドとドイツを結びつける陸地は、ドガー(Dogger)と呼ばれている。したがって当時イギリスに渡来したケルト人の祖先は、陸伝いにブリテン島に渡ったことになる。したがってまたその地では、海中から考古学遺物が出てくることともなる。

 最後であるが、しかし、それ以降、イギリスが大陸と切り離され、ブリテン諸島となったあとも、様々な集団がそこに移り住んだことが知られている。様々な集団とは、初期拡散で移住したケルト系集団の外に、時代順にならべて、ローマ人とガリア人、アングロ・サクソン系集団、デーン人・スカンジナビアのヴァイキング集団、ノルマンディー集団等々である。

 そして、これまでの研究では、先住者のケルト系集団は、まずローマ人と(彼らに征服されたガリア人)によってウエールズやスコットランドなどの辺境へ追いやられ、さらに5世紀にゲルマンの地からやってきたアングロ・サクソン集団によってさらに辺境へ追いやられるか、交雑したとも考えられてきた。そして最後にスカンジナビアからやってきたデーン人やヴァイキングによって、アングロ・サクソン系集団も後退を余儀なくされるか、さもなければ彼らと交雑したと考えられてきた。

 一言でいえば、現在のブリテン島の人々は、様々な人口集団の交雑によって生まれた集団の子孫であり、ただ周辺のウエールズ地方やスコットランドにのみケルト色の強い集団が暮らしているというのが、大雑把にいった理解であった。

 

 しかし、こうした理解には、まったく間違っていたわけではないが、大きく変更をせまられた部分があった。それを列挙すれば次のようになろう。

 一つには、従来、単一の民族集団と見られていたケルト集団が必ずしもそうではなく、遺伝子レベルではかなり多様な人々だったらしいことである。ただし、これは彼らが必ずしも文化的な意味でまとまっていなかったことを意味するものではない。

 つぎに、5世紀頃に大陸から大挙してやってきたと見られていたアングロ・サクソン系集団の遺伝子が10%~40%ほどであり、それほど大きくなかったことである。(つまり、ケルト系集団の遺伝子の比重がかなり大きい。)しかも、アングロ・サクソン系の比重は同じイングランドでも東側より西側においてより小さい。イングランド(England)の名アングルー族の地位が予想外に低かったのである。

 最後。9世紀以前のブリテン島は、しばしばヴァイキングの襲撃を受けており、時代が下るにつれて、ヴァイキングはイギリスに住み着くようになり、先住の集団(つまり、ケルト/アングロ・サクソン交雑集団)との戦闘を繰り返していた。もちろん、戦闘もあったが、交雑もあったに違いないと想定されていた。ところが、遺伝子解析の結果による限り、ヴァイキングの遺伝子的要素はごくわずかでしかなかった。1066年にイングランドに侵攻したノルマンディー公ウイリアムの軍隊も当時はフランス北部のノルマンディにあったとはいえ、歴史を遡れば、「北方」のヴァイキングの出身だったのだから、当然、ヴァイキングの血を受け継いでいるはずである。(この地は、家族史においても外のフランスの地域とは著しく異なった特徴を帯びていることがそれを証明する。)要するに、あれほどブリテン島を悩ませたスカンジナビア人の痕跡は、ほとんどイギリスには遺されていないというわけである。

 

 なお、この遺伝子調査は、4人の曾祖父が本人の居住地から80km以内の地に住んでいたことが確かな人だけを選び、2000人を対象に行われたという。したがって19世紀以降の人口の地域間移動が激しくなってからの移動要因をできるだけ避ける工夫が取られていた。ところが、それにもかかわらず、集められた遺伝子資料のデータは、ブリテン島の各地における諸集団の交雑があまり行われなかったことをはっきりと示している。換言すれば、各国(アイルランド、スコットランド、ウエールズ、イングランド)だけでなく、もう少し小さい領域でも、各集団の交雑率がかなり異なっていたのであり、集団間、地域間の交雑があまり進んでいなかったことを示している。

 

 これはかなり驚くべき事実といわなければならないであろう。もちろん、世界全体をみわわすと、インドのようにイギリスよりもはるかに古い歴史を持ちながら、交雑の進んでいない国がある。しかし、インドでは、交雑を阻止する大きい要因、カースト制やジャーティの制度が存在してきた。これは異なった職業や部族の間の交雑を阻止するメジャーな要因であった。

 しかし、ブリテン島にそのようなカースト制があったという話は聞いたことがない。それに、日本にも縄文系と弥生系(渡来系)の集団が交雑したという歴史があり、地域的な差異がまったくないわけではないが、ごくわずかである。

 

 ともあれ、イギリスが主に古ゲルマン人の一派(ジュート族、アングルー族、サクソン族)が主流となって生まれた国でありお、またヴァイキングの強い影響によって生まれた国であるという常識は、改めなければならないようである。

 しかし、もしそうだとすると、ここに一つの問題が生じることになる。それというのは、イングランドの家族が強固な個人主義という特徴をスカンジナビア人と共有しているという事実をどう解釈するか、である。遺伝子上の影響は受けていないが、文化的な影響は受けたということなのであろうか?