かなり大雑把に言った場合でも、親族組織や相続制度は地域にほってかなり異なっており、また時間の経過とともに変化してきた。その上、同じ時空間内でも異なった慣行が行われていた可能性が高い。したがって、あまりスイーピングに語ることは正しくないかもしれないが、かといって、最初からディテールにこだわるとほとんど何も言うことができなくなる。そこで、以下の記述は台地次的接近として、あるいは理念型として行うしかない。
近年では、縄文時代や弥生時代についても、考古学的資料から親族組織等についても推測されているが、ここではそれらについては省略することとする。ただし、日本史上の「古代」、つまり大規模古墳が造営された3~7世紀の時代に続く要素がそれに先立つ時代に見られたことは指摘されてもよいかも知れない。つまり、双系制、一時的訪婚の慣行、男女両性を含む分割相続制、等々である。しかし、文献史料による研究が可能となるのが、古代が終わり、古事記、日本書紀、万葉集などの文献が現れ始めてからになることは言うまでもない。これらの初期における史料からは、その後の歴史的発展の末に失われてしまった制度・慣行・慣習法がいまだ存続していたことが知られる。
一つには、双系制およびそれと関連していたとみられる一時的訪婚の慣行が続いていたと思われる。
万葉集からは、親が結婚を認めると、家屋の端の「つまや」に娘を住まわせ、夫の訪問を受けるという慣行の続いていたことが知られる。これはまた、日本民俗学の研究対象となった主に西日本の年齢階梯制村落における若者宿や娘宿の慣行、あるいは『常陸国風土記』に記述されている筑波山の歌垣、男女の自由な交際・配偶者決定と結びついていた可能性が高い。この慣行では、成人した青年や娘は村内の若者宿や娘宿に寝泊まりするようになり、配偶者を選ぶことになるが、いったん婚姻関係が成立すると、一時的訪婚の状態に移行することになる。そして、夫が妻のところに通いつづけ、何年か経ったのちに、妻は夫方の住居に移る。
こうした慣行・制度は、武士階層にあっては嫁入婚の慣習に移行して消え去り、その後、武士以外の階層にも広がったとみられているが、西日本、とりわけその海岸部の村には、かなり遅くまで残っており、近代になってから民俗学研究の対象となったことは、よく知られている事実である。かくして、古い時代の書かれた史料と近代まで生き延びた年齢階梯制村落に関する調査資料は、多くのことを教えてくれるが、その一つは、こうした慣習がかなり狭い地域(村)における内婚制と結びついていたという事実である。またこの内婚制は、双系制の観念と協働することによって、村落を「内婚的ディーム」(endogamical deem)、つまり父系と母系の親族関係で結びつけられた親族組織体であるかのような観念を生み出す場合があったことである。このような「よばい」の慣行に村落内婚制的規制が結びついていたことは、『万葉集』の歌からも推測される。
こうした慣行と結びついていたもう一つの慣行は、遺産相続における女子の参加である。
遺産相続について、律令制下の女子は、相続から排除されていなかった。養老令では、男子の均分相続が、女子には男子の半分の相続が規定されていた。ただし、男子がいない場合には、女子の相続が認められている。また(『日本の古代11 ウヂとイエ』による)、平安後期の畿内における在地領主層の所色と一所所領が祖先相伝領として嫡男によって相続され、女子は排除されてはいたものの、1町歩またはそれ以下の小規模な土地では、男子と女子の均分相続が行われていたとされる。また大宝令では、特別相続分(宅・奴婢の半分、財物の半分)が嫡子(長男)に認められていたが、これは貴族や「累世相続富家」に限られており、また養老令ではこの特別相続分の比率が減らされている。そして、これらより下の階層では、「財物均分」の原則が取られていた。したがって、貴族、領主層、累世相続富家では嫡子の相続分がより大きく、庶民の間では男子間の、また男子女子間の均分の傾向が強まる傾向があったことになる。
なお、平安末期に行われていたとされる庶民間の「女子均分相続」については、南宋(1127~1279年)の時代に華南で行われていた中原(華北)のものとは異なった慣習(女子を含めた均分相続)に由来するという説があるようであるが、果たしてそのような華南の影響が平安末期の日本に伝えられたという説は成立するのであろうか? 私にはかなり疑問である。かりにあったとしても、それは古くからあった庶民間の男女均分相続傾向を正当化する役割を演じたにすぎないのではないだろうか。
そこで次の問題は、こうした婚姻慣行、親族制度および相続の総体が鎌倉時代から室町時代にかけてどのように変化したのか、またその変化を促した事情とはどのようなものであったか、である。
この点でも、変化は、最初に武家から、またその中でも統率者として一つの国全体または一つの郡全体を領するような、より広い本所(根本所領)を持つ上層から始まったとみなければならない。そのような階層に属する武家の統率者は、より大きい兵力を有し、また国司(守、介)として領域内の各所を開墾、支配するための権限を与えられていた。しかし、文献史料が残されている地域ではどこでも似たような状況であるが、最初、一国規模であった武家が、子や孫の代になると、家の分割によって、郡、さらには郷里のような小規模な地域を領するような存在になってしまった。常陸国しかり、相模国の三浦郡しかりである。もちろん、それらの中では惣領家が相対的に大きい規模を維持していたとはいえ、それさえ規模の縮小は免れなかった。だが、さらにそれを超えて郷・里より小さい単位(邑、村)への細分が生じるならば、地代(レント)取得者としての武家としての存続が不可能となったことであろう。
これと並んで生じたもう一つのはっきりした変化は、婚姻における変化である。中世の史料ははっきりと語らないが、職業的戦士階層としての武家の男子にとって、一時的にせよ妻のもとで生活すること(一時的訪婚)が不都合であったことは、論を待たないであろう。一族、郎従(郎党)、家子を問わず、主人の号令に従って軍事活動に従事する準備をしておくためには、最初から自宅に妻を置いておくことが必要だったに違いない。かくして一時的訪婚慣行は、武家にあっては、嫁取婚に移行せざるを得なかった、というのが通説となっている。ただし、江守五夫氏のように、すでに古くから一時的訪婚と並んで嫁取婚が行われていたという両慣行の併存説もないわけではないが、かりにそうだったとしても、嫁取婚は少数派であり、かくして大勢としては一時的訪婚
が急速に廃れ、嫁取婚に移ったと考えることに間違いはないようである。そして、この新しい婚姻形態への移行(または居住規則の変化)は、女子が嫁入りに際して持参する婚資を除いて、宅や奴婢、財物に対する女子相続分の必要姓をなくしていったと思われる。ただし、女子の相続分が突然消滅したわけではなく、いわゆる「女子一期分」とされるものが介在していたようである。この「女子一期分」とは、女子当人の一期(生涯)のみ財物(土地など)の知行を認める制度であり、その死後は惣領に返還されるというものである。こうした変化は、すでに鎌倉時代には始まっていたとみられる。
しかし、武家の男子の分割相続については、まだ鎌倉時代には大きい変化は生じていなかった。鎌倉時代にも惣領は、一族を統率する責任者としてより大きい領地を有していたとしても、その下に参集する一族も父祖の土地に対する相応の権利を保留していたのである。そして、それが大きく変わったのが室町時代である。
だが、あらためて言うまでもないかもしれないが、「一子相続制」(primogeniture)が体制として成立した地域は、世界的にはごく限られている。それが最も広い領域に広まったのは、西欧であり、その地は、北欧(スカンジナビア諸国)、イギリス、ドイツから、フランスの一部地域を通って、イタリアやスペインにまで到る地域に集中している。
一子相続制が成立するためには、いくつかの条件が必要だったようである。その一つは、人口論的なものであり、要するに人口増加が抑制されていることである。周知のように、人口は出生率(fertility)が平均して2ほどの値にあれば、減りもせず、増えもせず、安定的となる。ただし、個々の家族にとっては、必ず女子1人、男子1人が生まれるというわけにはいかないので、養子、婿養子などのよる家相互間のやりとりが必要になる。ヨーロッパの場合、ほぼ双系制社会であるため、異姓の養子を受け入れることに大きい抵抗はないが、もしこれが中国(華北、中原)や李朝以降の朝鮮であれば、大問題となったであろう。
また西欧では人口が増加したときでも一子相続制が成立しえたが、それには相続から排除された弟たち(younger brothers)が、聖職者として教会に入ったり(聖職者は独身でなければならず、常に需要があった)、ワンランク下の階層に移動したり、外の何らかの職業に就く道が準備されていることが前提とされていた。
ただし、西欧でも庶民(農夫)の間に一子相続制が広まった時代、きわめて深刻な問題が生じざるを得なかった。つまり、一家を養うだけの土地の相続から排除された人々は、耕地共同体制度の下に存在していた共同地(牧草地などの土地)に粗末な小屋を構え、周囲に狭い菜園を営むか、さもなければ生涯独身の奉公人(servants)として豊かな人々に仕えるか、の選択を迫られたのである。これらの小屋住、奉公人は地域によって様々な名称で呼ばれたが、どこでも起源は同じである。彼らは(よくそう考えられているように)没落した農夫だったのではなく、相続から排除された農夫の息子(多くは弟たち)・娘たちだったのである。しかも、彼らがイングランドでは悲惨な最期を迎えたことは、ジョン・ガルブレイスの『不確実性の時代』に書かれている。
要するに、一子相続制とは、人類の最も基礎的な社会細胞である家族の内部に衝撃的な変化をもたらす何物かだったということである。それがまずは武家に限られていたとはいえ、室町時代に生じたということは、充分に注意されなければならないであろう。実際、室町時代には、あまりに巨大な事件が生じている。それは、「応仁・文明の乱」(1467年~1477年)と呼ばれる内乱であり、この後に戦国時代が続いている。そもそも、この応仁の乱とはいかなる出来事だったのか?
一言でいえば、それは室町幕府の将軍家と管領家との後継者をめぐる争いであった。だが、その争いが起こる前に、多くの有力守護大名の中で「家督相続」争いが頻発しており、また応仁・文明の乱の経過事態も「家督相続」問題抜きには語ることができない。しばしば、応仁・文明の乱は、無意味な、あるいは意味不明な戦争であり、日本史上でも最も理解しがたい戦争だっという人もいるが、決してそうではなかった可能性が高い、と私は思う。それは、喩えれば、イングランドでも何のための戦いだったのか意味不明であったと多くの人が考えている「バラ戦争」(白バラ派vs赤バラ派の戦争)のようなものであった可能性がある。そういえば、この戦争も家督相続をめぐる紛争から生じたものであった。
ともあれ、応仁の乱については機会をあらためて見てみることして、これを期にして武家の相続問題には一応決着がついたようであり、残るは庶民(百姓)の相続問題のみとなったが、こちらは江戸時代の前半(1680年代頃)に最終的な決着が付けられたようである。その結果、明治時代のはじめには、琉球や薩摩藩の地域を除いて、日本列島は嫡男による家督の一子相続制の国となっていたのであり、その制度は民法典にまで明記されるにいたる。
これが中国の対応する制度的構築物ときわめてかけ離れたものであったことは言うまでもない。