日中の団体形成原理の相違 (2)頼朝と頼朝の下に結集した武将・兵 | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 あまりに大きいタイトルを付けてしまい、自分自身で困っている部分もあるが、とりあえず続けてみることとする。

 前に述べたように、中国では王朝国家が脈々と続き、20世紀に中華民国が成立するまで生きながらえた。これに対して、日本では中世に武家政権が成立し、幕末まで続いたが、その体制は西ヨーロッパの封建制に類似するものとも言われている。

 もっとも封建制というと、中国の周代の封建制が世界で最初(かどうかわからないが)のものとも言われるが、これもよく指摘されるように言葉は同じ封建制でも、その内実は西欧のものとはかなり異なっている。中国の封建制は、周王室がその全領域を直接に統治することなく、主に一族を各地に封じたものとされる。ただし周王室の一族(姫氏)ではない有力者・功臣も封じられたとされる。しかし、有り体に言えば、封建の語は、まだ統一前の諸地域の連合体を表すものであり、王室と諸侯との間に主従関係が成立していたかどうかはかなり疑問である。後に中央集権国家の秦や前漢が成立したとき、こうした封建のしくみは徐々に消滅し、郡県制によって置き替えられた。そのために(つまり国から独立性を奪うために)漢の武帝が取った政策は様々だが、その中には、独立性を奪うために国の支配者に均分相続を義務づけたことがある。なぜ均分相続が力を奪うことになるのか、その仕組みは単純であり、外の地域の歴史からも例証される。例えば中世のロシアでは、大公、公につぐ勢力としてボヤール(boyare)なる階層があったが、大公も公もボヤールもかなり厳格な均分相続を実施していた。その結果、公やボヤールは、何世代も均分を繰り返し、15、16世紀頃には、一村しか領有しないような公やボヤールさえ現れたという。また「ボヤールの子」(deti boyarskie)という用語が史料に頻繁に現れるようになるが、ソ連の研究者が実証的に明らかにしたところでは、かつては大ボヤールであった祖先のなれの果てであり、あまりに小規模な土地(例えば一つの小村)しか領有しないために、農民より貧しい生活を強いられていたともいう。これらの階層が大衆の上に立つ支配層として成立するためには、君主(皇帝)の官僚になり下がるしかない。これが期待される帰結であったのである。

 一方、西欧では、中世社会を彩る騎士階層、すなわち職業的な戦士階層は、最初国王や諸侯(公)に従属する従者から出発したが、しだいに従属的な地位から徐々に抜け出し、<誉れ高い>(高貴な身分感情を持ち、また城を有する)階層にまで上昇した。しかし、王・諸侯と騎士との主従関係はほぼ中世全体を通じて続いている。その最も分かりやすい例は、ノルマンディー公ウイリアムとその従者たちの物語である。1688年、フランス国王に臣従する地位にあったウイリアムは、イングランドに侵入し、支配するに到った。その時、手足となって働いたのが、彼の従者たち(knaht)である。knaht は、ドイツ語 Knecht の同根語であり、従者、奴隷、僕婢などを意味する。しかし、イングランドに移った従者たちは、その後、騎士(knight)という誇り高い身分となった。ちなみに、ドイツでも事態は同じように推移したが、騎士は Ritter (馬に乗る人)を用いて表現され、下僕を意味する Knecht はついに使われなかった。いずれによせ、彼らが領地の分割を避けるために一子相続に固執したことは、注意されてよいだろう。彼らの領する土地は、主人(王、諸侯)から安堵された(認められた)ものであり、その代償として軍事奉仕をするのが義務であり、権利でもあった。

 さて、こうした外国の事例に照らしてみたとき、日本における事態はどうみえてくるだろうか?

 ここでは、そのために西欧と同じようにプロの戦士階層(武将、兵)をまとめあげ、王朝国家と並立する権力体を創出した源頼朝のケースを見ておくこととする。ここで断って置かなければならないのは、何か実証的に新しいことを提示する訳では決してなく、また新しい概念を提示するつもりもないことである。ただ外国史と比較した場合の日本の特徴というべきものが何か発見できないかという程度の意味、heuristic な(発見的な)意図から行なうにすぎない。しかし、この heuristic な方法は、漠然としていたものを意識的に自覚する方法としては、それなりに意味のあることではないかと思う。

 

 さて、頼朝は、まだ子供の頃、平治の乱からしばらくして危うく処刑されるところを助命され、配流の処分となり、伊豆の北条氏の領地に長年とどまっていたことはよく知られているところである。流刑の身とはなりながら、平治の乱の直後に京で与えられた官位を剥奪されることもなかった。ところが、1180年にいわゆる以仁王の令旨に応じて挙兵し、その後、鎌倉の地に後に「幕府」と呼ばれるようになった権力組織を作りあげた。私が教わった頃には、幕府は1192年に成立したと学んだが、最近は所説が並列的に教えられているようである。しかし、それが何時成立したかは、大きい問題ではない。

 私にとって昔から謎だったのは、頼朝は、挙兵を決断したとき、どのような将来構想を持っていたのだろうかという点であり、またなぜあれほどの軍団を集めることができたのだろうかという疑問であった。この点は、今でも本質的には変わらないが、自分なりに若干理解できたこともあるように感じる。

 まず以仁王の令旨に応じて挙兵したと言われるが、それはどのようなものだったのだろうか? それは次のような内容のものであると言われる。有力な説によれば、これは令旨の形式を満たしておらず、偽物だという見方もあるようだが、以仁王が令旨を出したことを示す史料は複数あり、令旨が出されたこと、そしてその内容については、妥当なのではないかと見られているようである。たしかに令旨は、普通、奉書(身分の高い人が低い身分の人に書かせた文書)の形式を取り、その内容(命令の本文)がどこからはじまり、どこで終わるのかが分かるように書かれているとされるが、引用文ではそれがはっきりしない。ただ「奉最勝王勅偁」とあり、その後が始まりであるとしても、終わりがはっきりしない。命令を受けて書いた源仲綱自身の語と混在しているように見える。もしかすると「然則・・・」の前までが令旨の内容であろうか。

 

「應早追討淸盛法師并從類叛逆輩

右、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣、奉最勝王勅

淸盛法師并宗盛等以威勢起凶徒亡國家、惱乱百官万民、虜掠五畿七道、幽閉皇院、流罪公臣、断命流身、沈淵込樓、盜財領國、奪官授軄、無功許賞、非罪配過、或召釣於諸寺之高僧、禁獄於修學之僧徒、或給下於叡岳絹米、相具謀叛粮米、断百王之跡、切人之頭、違逆帝皇、破滅佛法、絶古代者也、干時天地悉悲、臣民皆愁、仍吾爲院第二皇子、尋天武天皇舊儀、追討 王位推取之輩、訪上宮太子古跡、打亡佛法破滅之類矣、唯非憑人力之搆、偏所仰天道之扶也、因之、如有 帝王三寶神明之冥感、何忽無四岳合力之志

然則源家之人・藤氏之人、兼三道諸國之間堪勇士者、同令与力追討、若於不同心者、准淸盛法師從類、可行死流追禁之罪過、若於有勝功者、先預諸國之使節、御即位之後、必随乞可賜勸賞也

諸國宣承知依宣行之
   治承四年四月九日            前伊豆守正五位下源朝臣」

 

 この解釈が正しければ、以仁王は、「清盛法師ならびに宗盛等」「清盛法師従類」が悪逆非道をつくしているので、これを討つべしと命じ、それを奉じて源仲綱が「源家之人、藤氏の人」に挙兵を呼びかけているととれる。そして、これに応じて頼朝が挙兵した。

 だが、清盛法師の率いる権力集団を討つことは勿論だとして、その後、どうするのか、それについて令旨は書いていない。ちなみに、ずっと後に鎌倉「幕府」が成立してから、北条義時が(二代目)執権の時、後鳥羽上皇が義時を討つ命令を諸国に発しているが、いうまでもなく後鳥羽がめざしていたのは、北条義時一人を討つことではなく、義時の率いる権力体全体を破壊することが目的であったはずである。だが、破壊したあとどうするのか? それは示されていない。

 たしかに未来は正確に予見できるわけではなく、戦の結果がどうなるかは、誰にも分からないと言えばそれまでである。しかし、戦にはそれなりに大義(cause)があり、また戦略(strategy)や戦後処理の展望があることも間違いないであろう。後のことはまったく考えていません・・・というわけでは決してないと思う。

 このことについて、専門家の間での議論がどうなっているか、分からないが、素人にも分かりやすく解説しているのが、本郷和人さんの本(『鎌倉幕府の真実』)の議論であろう。これによれば、頼朝自身の考えは、おそらく平家(平清盛の一族郎党が維持してきた権力)を破壊したのちは、京の天皇の下で武家としての職能を果たすということにあったように思われるということであり、私もたぶんそれが真相に近いのではないかと思う。本郷氏はまた、別の本で、これが日本史学史上のいわゆる「権門体制」論に近い考え方であるとも言う。

 しかし、それが頼朝の展望であったとしても、それを簡単に実現することを阻む要因もまた働いていた。それは、そもそも本領を持たない、いわば食客の頼朝はいかにして軍事力を組織できたのであろうか、という点とも関係している。

 以仁王の令旨が届いてから、挙兵までにはしばらく時間があるが、この間、頼朝が何もせずにじっとしていたと考えることはできないであろう。おそらく父の代までに鎌倉を中心とする地に築かれていた様々な関係を利用して、頼朝が軍事力の構築を工作していたと考えるのが妥当であろう。そして、実際に、北条氏のほかに、相模国三浦郡の三浦氏、上総介(広常)、土肥氏、大庭氏、波多野氏などが、頼朝のまわりに結集する。

 ここであらためて言うまでもないが、1180年に始まる争乱は、決して「源平の争乱」ではない。たしかに一方の極には、平清盛の勢力があり、もう一方の極で大きい役割を演じたのは源頼朝や(源)木曽義仲などの勢力であることは確かであるが、対決したのが平氏と源氏だったわけではない。事実、頼朝を支えた勢力には、北条氏、三浦氏、上総介などのように桓武平氏の流れを汲む勢力が多数入っていることには注意しなければならない。

 とりわけ頼朝の成功にとって大きい鍵を握っていたのは、上総介広常だったことは間違いなく、彼が2万(というのは誇張だとしても)の兵を引き連れて参加したことが決定的だったはずである。また同じ源氏であるが、木曽義仲が越後の城氏を破り、越後を経由して北陸から京に向かうことができたことも、頼朝にとって地からになったはずである。これによって、それまで洞ヶ峠を決め込んでいた多くの武将たちが頼朝に与することによって利益を得ることができると踏み、頼朝に与力したであろう。

 ところが、これらの頼朝の下に集まってきた武将たちが頼朝の政権構想に共感して集まってきた集団であったとは到底思えない。これは武士とは何か? という問題にからむ問題であるがが、頼朝のように武家の棟梁として君臨し、国家のありかたを考えるような存在と、地方社会に根をはり、名(本領、根本所領)を領し、そこからあがる地代(レント)収入を増やすことに利益を感じている社会層とでは、まったく異なった存在であるというほうが正確であろう。

 今日でも、20万人もの従業員を雇用するアメリカ合衆国の巨大企業の経営者層と、そこに雇われる普通の従業員=労働者では、同じ従業員といっても、まった異なった存在である。所得も千倍ほどの開きがある。そして、その中間には、様々な中間管理職がいることも、現在の私たちは教えられなくとも知っている。同じように、武士・兵といっても、地代収入で生きて行くという点を除けば、その領する土地の規模はまちまちである。

 上総介広常は、そのような様々な武士・兵を一国単位でまとめることのできる有力武将であった。そこには、広常を頂点とする何重もの主従関係の巨大なヒエラルヒーがあったはずである。かりに2万というのが誇大であり、その半分または四分の一としても、大勢力である。その広常が参集したことの意味は大きい。

 しかし、その広常が軍事的に勝利した後の頼朝にとっては、やっかいな存在になったと思われる。対立は、最初の大きい戦闘・富士川の戦闘後にやって来ている。敗走する平家軍=官軍を京まで追って行こうとする頼朝に対して、それを制止して鎌倉に戻り、関東の地を固めることを強く主張する人々がおり、その一人が広常だったとされている。またその後も、広常は、何かにつけて京、京という頼朝に対して、異見を持っていたとされている。ただし、広常の意見がどのようなものだったのか、書かれた史料がなく、その内容を詳しく知ることは出来ないため、想像の域を超えないが、(1)ただ単に関東の武士の物質的な利益を述べるにとどまっただけなのか、それとも(2)京から独立した関東の軍事政権=国家を創出すべしという意見なのか、判然としないが、結果的には、両者が親和的であり、近寄る可能性は高い。遠く離れた琉球でさえ、おもろに「京、鎌倉」と歌われ、その二重権力状態はしだいに知られるに到っていた。

 

 もし権門体制論的な展望を頼朝が持っていたとしたら、これはゆゆしい事態に思われたかも知れない。もう一つ頼朝にとって思わしく思われない事実があったことは間違いないであろう。それは、貴種であるがゆえに武家の棟梁となることができた頼朝ではあったが、自分の本領を持っていなかったことである。そのために、挙兵にあたって上総広常の軍事力がモノを言ったことは先に述べた通りである。しかし、軍事的行動が一段落してみれば、それは目障りなことであっただろう。

 かくして広常は頼朝の指令を受けた梶原景時に暗殺されることとなった。愚管抄によれば、寿永2年(1183年)、景時と双六に興じていた最中に、景時は突然盤を飛び越えて広常の首を掻い切ったという。理由は謀反の疑いがあるという噂があったからといいう。そして、暗殺後になって、頼朝はさる神社に広常が頼朝の戦勝を祈願して鎧を納めていたことを知り、彼の無実を知ったとか何とか言われている。しかし、これは作り話に違いない。上総介広常が忠心を持ち、謀反を起こすつもりがなかったことは頼朝には分かっていて、暗殺したことはまったく疑う余地がない。もちろん、広常が高望王流の平氏一門であったことなどは、この件について、何の関係もない。

 

 さて、この後の日本史の展開を見ると、頼朝の努力もあり、鎌倉武家政権は王朝国家の軍事部門として位置づけられ、「権門体制」、つまり頼朝の展望に近い形に位置づけられることになる。しかし、以外にも、それを否定する力がまず武家政権の外側から出てきた。いわゆる<承久の乱>がそれである。これは、後鳥羽上皇が<北条義時とその一味>(鎌倉幕府という便利な言葉はなかった)を討つように諸国に命じたのであり、逆襲を受けた事件であり、これによって権門体制の一環から少しはみ出ることになった。少なくともその第一歩が踏み出されたといえよう。

 もう一つは、政治史というよりは経済史的な出来事であり、まず武家の中における分割相続制から家督の一子相続制へと向かう発展であり、また王朝国家を特徴づけた荘園制(寄進地系荘園)の解体という事態である。この両者は、必ずしも密接に関係しているとはいえないかもしれないが、まったく無関係とも言えない関係にあったようである。