日本と中国における団体形成原理の相違 比較史社会史的な視点から (1) | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 つい大上段な表題をつけてしまったが、一応、この表題についていくつかのことを書いてみたい。とはいえ、いつものことながら、東アジアは狭い意味での私の専門分野ではないので、かなりルーズな話になるが、大きく間違っていることはないと思う。

 さて、中国史の大家・仁井田隆著の『支那身分法史』という大著がある。これは本文だけで1000ページ弱もある大著であるが、目次を見ると、総論の後に、宗族法が説かれ、続いて親族法、家族法、婚姻法、親子法、後見法と続き、最後に部曲・奴婢法で終わっている。つまり、本文のほとんどは血縁関係・婚姻関係に関する法の解説にあてられていて、最終章の部曲・奴婢法だけが狭い意味の身分法といえるような構成となっている。はたしてこれは「身分法史」と言えるようなものだろうかと、疑わせるような本である。もとより、本文を読むと、士農工商などをはじめとして「身分」についての解説もある。あるが、ほとんどすべてが血縁関係・婚姻関係との係わりの中で説かれているわけである。

 若干違和感がないわけではなかったが、これは中国における団体形成が親族、特に宗族との係わり抜きには語れないほど、宗族の地位が高いと考えれば、理解できなくもない。

 中国における宗族の特別の地位の高さは、つい最近出版された文庫本(田原史起『中国農村の現在』中公新書)でも、強調されており、宗族がかつての歴史においてだけでなく、現在でも依然として大きいポジションを失っていないことがわかる。詳しい紹介は省かざるをえないが、一例として、著者があげている例(あるおばあさんの葬儀に際して、宗族の構成員を中心に600名もの人々が参列した)を挙げるにとどめておこう。

 宗族がいつ頃から登場したのかを正確に論じる時間も能力もなく、最古の文字史料を持つ殷(商)の時代からあるかどうかは知らないが、少なくとも漢代にはあったという。有名な「魏志倭人伝」にも、「その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を没す」とあって、倭国にも宗族があったとった書き方である。しかし、これは他に簡単に説明する語句が見当たらないので使ったまでで、単に<妻子=家族を超える遠い親族>まで罰したというだけであろう。当時の倭国に宗族があったとは到底思えない。似たようなことは、ヨーロッパ史でも見られる。古代ローマ人は、周辺の諸民族(ガリア人や古ゲルマン人)を征服する戦争に出かけ、彼らの社会を観察し、書物に記したが、その時、古ゲルマン人の中に「氏族」(gens)があったかのように書いている。しかし、それはローマ人の筆法であり、今日のヨーロッパの研究者の中には、ゲルマン人が古代ローマ人に類似の gens (父系の単系出自集団)があったと考えている人はいない。

 これまでも、宗族とは何かを簡単に説明してきたが、ここでも一通り説明しておくことにしたい。それは、今日の文化人類学者であれば、「外婚的父系的出自集団」というものである。つまり、氏族の男性メンバーは、他の氏族からのみ妻を得ることを許される。逆に言えば、氏族の女性メンバーは他の氏族に嫁いでゆかなければならない。また仮に氏族の創始者(夫婦)がいるとして、その子孫の中で、男性メンバーは、他氏族から妻を迎え入れ、家族を形成するが、世代を重ねて家族(世帯)が大きくなるとともに、その家族(世帯)を分割する。ここでも注意を要することは、分割に際しては、親世代から受け継いだ財産は、完全に均等に分割されることである。そこには、長男と二男、三男との区別はない。ただし、祖先祭祀をする必要上、多くの場合、祭祀を行う責任を負う長男が祭祀料として余分の資産を受け取るのが通常である。このような家族財産の均分(均等分割)は、徹底しており、日本のいわゆる「分家」の場合とは著しく異なる。日本の場合には、とりわけ江戸時代の中期以降になると、長男が家督を相続し、二男は財産分割を受けた場合でも、わずかな土地を受け取ったにすぎない。また本家と分家との間にはかなり著しい保有資産上の相違があった。中国の場合に戻ると、家族分割によって生まれた複数の家族もまた次以降の世代になると、また分割される(というより、アメーバーのように「分裂する」と言った方が正確かもしれない)。

 こうして生まれる宗族は、時間の経過とともに家族分裂を繰り返し、拡大するのが普通である。そして、分裂を繰り返してゆくうちに、かなり大きい集団にまで発展する。その規模は、数百人または数千人にも達する。

 こうした巨大集団が常に行動をともにするわけでないことは言うまでもない。ただ単に共通祖先から出自する集団であるという意識上の存在である場合もあれば、祖先祭祀上の単位となるようなより小さい集団(複数)に分かれていることもあれば、経済上の共同活動(世帯)のような集団の場合もある。こうした大集団の分岐は、どのような機能を果たすかによって決定されてくるわけである。

  

 ところで、このような集団形成原理が日本にあるか、またはかつてあったかというと、答えはノーである。たしかに父系制の原理がまったく欠けていたわけではない。また財産の均等分割の志向がなかったわけではないようである。しかし、そうした原理は、中国の宗族のような集団形成に向かうことはなかったことは明らかである。

 例えば日本では(琉球でも)、村を開墾した草分者の子孫が本家と分家に分かれている場合が一般的である。これらの「集団」は、研究者によって同族団と呼ばれたり、また当の村人によって「マキ」とか「マキヨ」(琉球)と呼ばれてもいた。私の郷里の場合、おそらく神主家が草分者の直系の子孫(総本家)であり、そこから分家が分かれ出て、さらにその分家から分家が分かれ出て、さらにその分家から分家が分かれ出る。そのようにして総本家から分家によって成立した家は、十数戸あったと記憶している。私の家の場合には、途中で婿養子が少なくとも2人以上入ってきているので、<分家を出してもらった>初代とは血縁上のつながりはないかもしれないが、本家から分かれ出たのが今から340年ほどさかのぼる1680年頃と推定されている。郷里の村には、別の名字を持つ旧神主家が他に2軒あり、それぞれが10戸内外のマキ(本家ー分家関係のある集合)を形成していた。戦後まだ間もない頃には、これらの中では、本家(おもや)と分家(あらや)という区別があり、それなりに協働関係があったことを記憶している。だが、これらの十数軒の家が<同じ祖先から分かれ出た同族団>として意識されていたかというと、決してそのようなことはいえない。たしかに名字は同じだったかもしれないが、それ以外には、まとまった血縁団体だという意識は全く欠如していた。もちろん本家ー分家関係を丹念にたどってゆけば、一つの父系血縁団体だという結論は得られるのかもしれないが、そもそもそのような同族意識がなく、かつ経済的な協働関係がないのであるから、どうしようもない。このようなことは、おそらく全国どこでも似たり寄ったりであろう。私の大学時代の友人も昨年自費出版した本の中で、村の「萩原」姓の家の間に何の関係もなかったと書いている。

 

 もうすこし古い時代のこと、武士の場合はどうか?

 よく知られているように、源氏は清和天皇から、平家は桓武天皇から出ているとされている。その他にもあるらしいが、ここではややこしくなるので、省略する。また藤原氏は、乙巳の変で中兄と行動をともにした中臣の鎌足から出ているとされている。これらを祖とする人や家については、近世まで数えきれないほどの系図が描かれている。そこで、始祖を誰に定めるかで相違が出てくることは否定できないが、きわめてルーズに言えば、これらは--中国ならば-ーそれぞれが一つの宗族を形成してもよさそうなものである。しかし、決してそうはなっていない。たしかに源氏は源氏であり、戦記物では、誰それが源氏だ、平家だ、藤原だとやかましくいう。ところが、それらが一つの宗族をなすという話は聞いたことはないし、そもそも一つにまとまるどころか、対立しあっているのが普通である。例えば源頼朝と源(木曽)義仲が<お互いに同じ宗族だから仲良くしよう>などと言い合ったといった話は聞いたことがない。それどころか、木曽義仲が京入りしたのち、二人は敵対し、結局、義仲は頼朝によって打たれてしまう。しばしば1180年に始める争乱は、かつては源平の争乱などと呼ばれたが、よく知られているように、この争乱は源氏族と平氏族の2大氏族が争ったといったものでは決してなく、ただ単に一方の総大将が平の清盛であり、他方の総大将(棟梁)が源頼朝だったというにすぎない。そして、この二人に与力した武将には、それぞれ源氏もいれば、平氏もおり、藤原氏もいたのである。要するに、所属する氏姓はどうでもよかったのであり、多くの武将やそれに従う兵にとっては、戦争で自分の領地、そしてそこからあがる収入(租税、年貢)が増えるかどうかだったのである。実際、鎌倉に隣接する三浦氏は、平氏であると言われており、彼らが頼朝に味方したのは、領地(つまり地代=レント)が増えることを期待してのことであった。他の諸将も多かれ少なかれそうであり、彼らの多くはしばらく様子見をして頼朝が勝ちそうだという判断がついたので、頼朝の陣営に就いたのであった。そこには源も平もまったくといってよいほど関係ない。そこで、頼朝もどの武将がいつ自分に与力したのかをじっと見ていたこともまた議論の余地がない。

 さらに付け加えれば、次のような例もある。最初、信長は平姓を名乗っていたが、途中から源姓に変えたという。秀吉は、出自を南に知られていたので、羽柴を名乗り、後に中臣と変えた。家康は、最初、藤原姓を名乗ったが、途中から源姓に変えた。江戸時代になってからは、儒学者・林羅山に自分の出自を考えてもらっているという有名な話もある。要するに、中国人にとっては、宗族と姓とはきわめて重要な意味を持っていたが、日本の武士にとっては、中国におけるような意味では、無意味なことだったと、言わなければならない。

 

 それより日本の場合に、目につくのは、武将たちが自分の領する地の地名を名字として称するようになったことである。

 鎌倉、木曽、北条、武田、足利、佐竹、直江、松本、三浦、河越(川越)、柿崎、宇都宮、秩父・・・・キリがないので、これ以上はやめておくが、これはやはり注目される事実であろう。

 

 さて、日中における以上の差は、どのように説明されるだろうか?

 やはり、私の意見では、古代から中世にかけての歴史的発展経路の相違が根本にあるといわなければならないように思われる。もちろん、これは19世紀から指摘されてきた事柄であるが、しばしば洋の東西を問わず、どこでも同じような歴史的発展を経過してきたという最近流行りの意見にかき消されてしまい、歴史の相違が無視される傾向があるように思う。しかし、かつてはマックス・ヴェーバーが古典的な名著『儒教と道教』で指摘したように、中国とヨーロッパ(また中国と日本)との間には、大きい相違があったとするべきではないだろうか?

 なお、歴史学上でも流行り・廃りがあり、しばしば研究者は自分の研究の独創性を認めてもらい、あわよくば有名になりたいがために、あまりよく研究しないうちに新説に飛びつく人もいるような気がする。中国の特殊性(あるいは停滞性)を説くのは、ヨーロッパ人の偏見(帝国主義的な思想)のなせる業であるという勇ましい意見もまた、ある時期には力を得がちである。旧説がすべて正しいとはいわないが、新説にあやしいものがあることは否定できないように思う。

 

 さて、まず事実として指摘できるのは、中国史には武士のような存在はついに現れなかった。ただし、中国に軍事力を担当する階層がいなかったというわけではない。7世紀末に百済や高句麗を軍事的に制圧した唐軍のことを持ち出す必要はないだろう。軍事はたしかに存在した。しかし、それは基本的には王朝の軍隊であり、皇帝の、そして皇帝の指揮する武官の指揮下に置かれた軍隊であった。しかし、日本では士農工商の「士」は武士のことであるが、中国の「士」は、とりわけ宋代以降は、科挙の試験に合格して皇帝の官僚(家産官僚)となった人々のことである。中でも、文学の素養を持つ文人がそうした「士」の代表格であった。

 こうした士の中には中央の宮廷で政治を行った人もいるが、多くは地方に置かれた県(県城)に派遣され、知県(県知事)として働いた。現在では中国の県は、2000ほどあり、その一つあたりの人口は50万人ほどとなっているが、かつては県の数は今とさほど変わらないとしても、人口は10分の1(5万人)だっただろう。それでも日本の郡より大きく、大国より少し小さい程度である。

 知県の主な仕事は徴税であった。要するに県城の周囲の地域の人々から税を徴収し、その中から規定量(額)を国庫に納めるのが仕事である。だが、その際、知県は、皇帝から給料をもらっておらず、人々から徴収した税から国庫に上納した残りを自分の所得とすることとされていた。つまり、知県というのは、一種の納税請負人のようなものだったわけである。したがって、知県は、人々からより多くを収奪すれば、それだけ多くの実入りを実現できたことになる。とはいえ、彼らは、自分の手足として働く人材を国家(皇帝)から与えられておらず、現地調達しなければならなかった。そこで地元の有力者の協力が必要となるわけである。

 ここまで書くと、ある意味で、中国の知県と日本の国司(守)の立場は似ていなくもないといえよう。日本の国守は、地方(国)に派遣され、そこで在地の有力者を介・掾・目として利用しなければならなかった。しかし、日本では、ここを出発点として武士の階層が生まれ、発展してくるのに対して、中国では、知県が武士的な階層に発展することはなく(その萌芽はあったかもしれないが)、皇帝の官僚(そして地元または郷里の富裕な有力者)にとどまった。

 

 したがって、ここでは問題を次のように立てることができるように思われる。つまり、一方では、中国で、知県を独立の封建的階層に発展するのをおしとどめ、皇帝の官僚の身分に安住させた事情とはいかなるものだったのか、他方では、日本で、国司の階層から武士階層への発展を促した事情とはどのようなものだったのか、という問題である。

 ここで最初に触れた点(日中の団体形成原理の差)に戻ることになるが、中国では、宗族がきわめて大きい役割を近年に至るまで演じてきたのに対して、日本では、同族団の役割を過少評価してはならないかもしれないとはいえ、むしろ別の原理、すなわち地縁的または主従制的な関係がより大きい役割を演じるようになったという発展が見られ、この点で、かなり本質的な相違が見られることが注目される。

 

 <中国> 皇帝の専制  知県による納税請負制   宗族  ⇔ 科挙による官僚の選抜登用(文官、文学と儒教の素養)

 <日本> 律令制国家  国司(守)の地方派遣   主従制 ⇒ 武士階層の形成(弓馬の術)

 

 いずれにせよ、根本的な相違は、中世に形作られたようであり、それが如何なる事情によるものだったのかが問題となる。

 

                                             (続く)