荻田家の出自について | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 能生町小見の龍光寺を菩提寺とする領主一族、荻田家があったということは以前から聞いていたが、特段に興味を持つことはなかった。しかし、あることを確認したくなり、調べてみた。

 手元にある『改訂越後頸城郡誌稿』には、まったく記載されておらず、上杉謙信や景勝のようによく知られた武将ではないことは確かである。『西頸城郷土史料』第二輯には、長繁ー孫十郎ー主馬ー隼人ー主馬ー久米之助と続く6代の名前と略歴が記されているが、長繁が「長尾為景の臣」となった時以降のことに限られており、そこに記されている大雑把な家伝の内容は次のようになっている。

 

 長繁  長尾為景の臣となる。

     謙信在職の時、糸魚川城代となる

 孫十郎 景勝・景虎の家督争い(御舘の乱)に際し、北条丹後守長国を刺して名を挙げ、糸魚川城代に就く

 主馬  景勝の近習となる

     その後(景勝の会津移転後か)越前家(堀家)に仕え、一万石を領する

     大阪夏の陣の戦功により25000石となる

     光長が高田に封ぜられると、糸魚川城代14000石を領する

 隼人  越後家の老臣として小栗美作守と国政を執る

     寛文の地震により圧死する

 主馬  延宝の越後騒動に際し、小栗と対立。天和元年に八丈島に流される。飢饉により餓死する。

 久米之介 他家に預けられる

 

 以上のうち、龍光寺に墳墓のあるのは、孫十郎、隼人、主馬の三人となっている。

 

 これだけではよくわからないが、永繁が龍光寺または寺のある小見の土地と何らかのかかわりがあったことはわかる。なお調べてみたところ、『北越略風土記』第8巻(当世城 頚城郡)にその先(祖先)のことが書かれていることがわかった。次に、そのまま載せておく。(ただし、原文のカタカナはひらがなに直し、適宜句読点をつけた。また( )で注を付した。)

 

 荻田主馬 其の先は文明延徳の頃、江洲(近江国)荻田庄に住し、郷士也。明応二年癸丑冬国守佐々木京極高清入道の老臣上杉泰貞に属し、荻田与三郎と称す。武勇且つ水練に達し、数度の功を以て文亀元年辛酉五月二十貫を玉ふて愛知郡川南城を預かり、隼人正貞と改む。川南は江南江北の界也。永正十三年丙子三月九日泰貞卒す。其子泰舜継ぐ。然るに八月十三日同国浅井郡の人浅井亮政不意に兵を起し、上坂城を屠り、泰舜一類滅亡す。此時泰貞(正しくは正貞か?)戦死す。其子与五郎十五才敵中に駆入り、父の讐を斬り、従者四人と当国に来り、西浜に住し、後長尾為景に仕ふ。天文二十一年卒す。其子長繁 初字孫十郎後改主馬 時僅かに二才也。成人して上杉謙信に仕え戦功あり。御盾の乱の時黄門(景勝)に従へ、天正七年二月朔日北条長国を槍にて突きし功を以て士大将 一説に武者奉行 と為り、当城(糸魚川城)一万石に感状を玉ふ時長繁十七才也。(以下略)

 

 文章に若干の混乱があるように思えるが、文中の泰貞を正貞に訂正して、全体を要約すると、次のようになろう。

 荻田主馬の祖父(与三郎、隼人正貞)は、近江国愛知郡の郷士であり、佐々木氏の老臣・上杉泰貞に仕えていたが、戦功をあげて愛知郡川南城を預かるに至っていた。ところが、永正13年(1516年)佐々木氏は、浅井亮政の軍に攻められ、上杉泰貞の一類は滅亡し、正貞(長繁の祖父)も戦死したが、その子・与五郎(長繁の父)は生き延び、従者4人を、そしてまだ2歳の子(長繁)を連れて、越後は西浜・小見の地へとやって来た。

 この時、龍光寺がすでにあったのかどうかが気になるが、同寺の創立は天文元年(1532年)とされているので、まだなかったことになる。しかし、一方では、長享2年(1488年)の僧・万里の紀行に「因ハ入小見布袋山龍光寺則洞下宗旨也」とあるので、天文創立とあるのは中興を意味するのではないかという疑い(西頚城郷土史料)もある。龍光寺の本寺とされている糸魚川市上覚の耕文寺についても、1536年より古いことはわかっているが、そこから先は不明である。1516年にはすでにあったと考えても矛盾はない。

 

 与五郎が越後に来たのは、上杉氏が越後国守護であったからだろうか。ともかく、越後守護代の長尾為景に仕え始めたといい、その子・長繁は成人して上杉謙信に仕え、戦功を立てたという。

 また近江(おうみ)の国から小見(おみ<青海)邑に来たというのも、何かのつながりを感じさせないわけではないが、この点については、想像の域を脱していないので、措いておこう。また近江商人と越後との交易上のつながりがあったことも無関係ではないかもしれないが、この点も史料的に確認できるわけではない。

 

 なお、荻田の名字であるが、ネットで調べる限り、荻田の庄があったことは確認できず、また荻田の地名も確認できないが、今でも滋賀県の愛知郡あたりを中心に荻田の名字を持つ人は多いようである。文明延徳の頃(1469~1492年)には、荻田庄に住む郷士だったということから判断すると、荻田氏の祖先が、その頃はまだ存立していた荘園の荘官(地頭・公文・名主など)だった可能性はあると思う。

 ともかく、荻田氏の祖先(父・与五郎と子・長繁)は、住み慣れた近江国を離れ、越後・頚城郡の地までやって来て、そこで新しい主従関係に入ったことが確認される。荻田氏は、やはり小見邑の中から現れた郷士ではなかったのである。