能生・泰平寺の歴史 (3)バック・グランド・ヒストリー | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 慶長3年(1598年)5月、越前は北の庄の城主だった堀秀治が春日山城主となって越後に入封したのち、泰平寺(というより白山社)の領地が没収され、わずかに7石余が与えられたということを書いた。これが泰平寺衰退の直接の事情であり、その背景には、中世を通じて存続してきた荘園制の土台がこの頃までに完全になくなっていたことも述べた。

 しかし、この1598年を前後する時期には、日本の歴史でもきわめて大きい変化が生じており、わが泰平寺に生じた出来事もまったく無関係というわけではない。そこで、そのことにも簡単に触れておきたい。

 とはいっても、この時期の日本史を専門的に研究しているわけでもなく、自分の家に十分な史料をそろえているわけでもない。というわけで、よくわからないことだらけであるが、もてあましている暇をつぶすためにも、また自分の理解のための忘備録のようなものとして、記してみることとする。

 今問題としている時期を前後して、この頃には日本史上きわめて重大な事件が生じている。一つには、羽柴秀吉が文禄の朝鮮出兵の失敗にも懲りず、慶長年間にはいって再度朝鮮出兵を行なったことが挙げられる。いわゆる<文禄の役>で懲り懲りしていた大名たちは、再度の出兵に辟易していたはずであるが、秀吉の命に背くことはできなかった。慶長2年、14万ともいわれる軍を朝鮮に派遣した。一方、その秀吉が将来における息子・秀頼政権の安泰のために行った外交政策(といっても日本国内の他領に対する対策)の一つが、大名対策であり、具体的には伊達政宗と徳川家康を牽制することであった。慶長3年7月、秀吉は伏見城に家康等の諸大名を呼び、家康に秀頼の貢献人となることを頼み、家康は約束した。しかし、秀吉がそれで安心したわけではなかったことは明らかである。五大老の一人、春日山城の上杉景勝を会津に移封したのは、そのためであった。そして景勝の去った後の春日山城には、直臣・北の庄の堀久太郎(秀治)を置いたのである。しかし、同年8月、秀吉は春から病状が悪化する中、再度秀頼の後見のことを諸大名に依頼したが、18日、その生涯を終えた。

 そして、秀吉が危惧していた通り、家康はすぐに動きはじめた。詳しい経緯は省かざるをえないが、家康は天下人となるための布石を次々に打ち出し、与力の勢力を固めると同時に、対立する勢力の討伐を計画するにいたる。家康が討つことを考えていた有力大名は、加賀の前田と会津の上杉であった。しかし、前田利家(と継嗣の利長)は、家康との軍事的に対決することを最初からあきらめており、それを避けるために家康の出すどんな条件をものんだ。これに対して、会津の上杉勢は、軍事的衝突を避けられないものとして、その準備を進めたようである。景勝は家臣の直江兼続に命じて神指城を築城させている。そして、春日山城の堀秀治は、そのことを家康に報じていた。こうして慶長5年6月16日、家康はついに上杉景勝を討つために、大阪城をたち、会津に向う。その後、江戸城に入った家康は7月19日に秀忠を総大将として会津討伐の軍勢を送り出し、その後、みずからも出発する。

 だが、7月24日、石田光成らの挙兵を知った家康は、反転し光成攻撃のために西に向かう。また上杉軍も徳川勢を追い、攻撃することはなかった。こうして両軍は交戦することなく終わったが、歴史上名高い関ケ原の合戦が行われることになる。なお、戦後、勝利した家康は、上杉景勝に対して米沢への移転(と120万石から30万石への減封)への移転を命じたが、領地のとり潰しや命を奪うことをしなかった。どうやら、兵であれ、宗門であれ、敵対する相手を絶滅させることをしないというのが家康のポリシーであったようであり、それによって相手方の死に物狂いの抵抗を避けるのが理由だったようである。

 なお、秀吉の直臣だった堀秀治はこのとき徳川家康の側についたが、その事情はよくわからない。武家が敵対する勢力のどちらにつくのか、その理由は複雑と言えば複雑にも見えるが、簡単といえば簡単でもあり、要は、どちらにつくのが有利か(あるいはどちらが勝ちそうか)という判断が重要だったことは間違いない。また堀秀治には、景勝の会津移転に際しての違約のことがあった。つまり、春日山城交替の時、年貢を半々で分け合うという約束を上杉景勝が破り、一年分をそっくり徴収し、会津に運んだということがあり、財政難に会うという「遺恨」があったことは間違いない。

 さらに慶長4年8月から翌年6月まで続いたという「上杉遺民一揆」のことがある。史料が乏しく、詳しい事実はよくわからないが、「上杉遺民」、つまり上杉家を慕いながらも越後に残された人々が新領主の苛斂誅求に反発し、一揆を起こしたというものではなく、上杉家臣・直江兼続が石田光成などと謀り(共謀し)、越後に浪人をよそおった武家を残し、また真言宗徒(泰平寺だけでなく、五智にも、他の地にも真言宗寺院はあった)などをそそのかして助力させ、新城主・堀秀治の力を削ごうとしたというのが事実かもしれない。一年近くつづいた一揆に堀秀治(および秀治と近い関係にあった村上、溝口などとともに越後に入ってきた大名)が手をやいたことは間違いない。ただし、もうしそうだしても、それは堀秀治が徳川に与力していることを、直江兼続などがすでに前提としていたということであり、堀秀治が家康に近づく要因となったというわけではない。ただそれが堀秀治の家康への接近を強めたことは確かであろう。

 『西頚城郷土史料』(第弐輯、大正4年)に載せられた史料には、上杉家臣だけでなく、僧侶の関与を示唆する節がある。曰く、

 「・・・僧侶ニハ五智院尺泉寺、金剛院、不退寺、蔵王堂、大乗寺、高名寺、薬師坊寺等・・・地侍には・・・皆一騎当千ノ輩ニテ、魚沼郡三俣ノ古城山ニ会合シ二心ナキヲ誓フ。・・・越後辺ノ真言宗ノ僧侶及ヒ神主等皆応ジ堂宮ヲ貸シ居宿セシム。新領主ノ手配届カズ当年ノ収納米マデ多ク略奪セラル。特ニ与板ハ直江家ノ城下ニアレバ・・・・。」

 

 ここに見られるように、上杉家に対する遺恨が、宗門では特に真言宗僧侶に対する反発と結びついていた可能性が高いのではないだろうか?

 堀秀治の宗門に対する態度で、もう一つだけ指摘しておきたいのは、これも『西頚城郷土史料』に掲載されている次のような事実である。そこ(28ページ)では、次の趣旨のことが述べられている。すなわち、越後では、往古、越後国の民間で帰依されていた宗旨は、真言宗が最も多く、それに次ぐのが天台宗であった。また北条氏領国の時代(鎌倉時代)には禅宗も殖え、特に上杉領国からは最も盛んな宗派となった。一方、一向宗(浄土真宗)は親鸞が配流された地であるが、その寺院数は多くなく、しかもその信者も葬式等は従前の通り菩提寺の僧(真言、天台)にまかせていた。ところが、よりによって真言僧侶は一揆に加担してしまう。ここまで、述べてきたところで、話は一向宗(浄土真宗)とキリシタン(キリスト教)に及ぶのである。

 その趣旨は、次の通りである。

 キリスト教徒が増加し、「(キリシタンノ)跋扈甚ダシキヲ見ル」故に「堀家ヲ始メ村上ノ村上氏、新発田ノ溝口氏等ニ於テ・・・国中ハ勿論、信濃、越中、加賀地方ノ一向宗門ノ僧及ヒ道心者ノ内或ハ道徳ニ勝レ或ハ弁才世智ニ巧ナル者数百人ヲ撰ミ所々ニ出向ハセ仏教ノ法談ニ託シ取鎮ニ奔走セシメタリ。僧侶道心者モ此機ニ乗ジ頻リニ改宗ヲ説キススメ、終ニハ己カ旦那ト云フ者ヲ有セシ為メ自然同宗門ノ帰依者増加・・・。」

 

、ここで思いつくのは、中世に門徒衆(浄土真宗信者)を中心とする人々の「一向一揆」が「百姓ノモテル国」を生み出していた越前・加賀・越中の3国のことである。特に加賀では、100年にわたって百姓が武家領主を排し、「百姓ノモテル国」を生み出していたことが想起されるが、この一向一揆を多大の犠牲者を出しつつ鎮圧したのは、前田家であった。鎮圧後、前田家は金沢城を築造したが、その地はまさしく一向一揆の中心的拠点の地であった。ところが、前田家は、一向一揆を鎮圧した後、かならずしも一向門徒(浄土真宗)に対して抑圧的な政策をとったわけではない。むしろ融和策または懐柔策であり、その政策的な要は、一揆を主導した人々をいわば体制内に取り込むこと(エスタブリッシュメント化)であった。(一向衆では、他宗のような妻帯を禁止された僧侶はいないことになっているが、実際には寺の宗務を中心とする階層がいないわけではない。)そのために行ったことは、講和してきた人々を処罰するのではなく、懐柔することであり、また一般信徒と指導者層とを分離することであった。その象徴的な政策が町の中心地に真宗寺院を集めることであったようである。

 堀秀治もまた、同じ徳川家康に与力した領主として学ぶところがあったように思えてならない。(ただし、これには確たる証拠があるわけではない。)ともあれ、こうして越後門徒は、1600年頃を境にして成長してきた可能性が高い。前に見たように、天和の検地の頃には、能生の寺院数では、浄土真宗が最も多くなっている。

 また槙の耕田寺の方丈さん(元)の語るところでは、1600年頃に溝尾村の門徒衆が一揆をなして押し寄せ、その時まで真言宗だた同寺(孝伝寺)の改宗を迫ったという。同寺は、その時に浄土真宗ではなく、曹洞宗に改宗したというが、これにも上記したような事情がかかわっているのかもしれないと想像する。

 

 ともあれ、繰り返しになるが、泰平寺から真言寺院が突然に姿を消すという出来事は、この地でも中世的な世界が終わりを告げたことを示す象徴的な事件であったといえよう。