能生・泰平寺の歴史 (2)中世の終わり | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 かつて七堂伽藍が建ち並び、50余坊を誇った泰平寺が1600年を前後して突然姿を消したことを述べた。 

 しかし、実は、その直接の事情は、史料上、すでによく知られている。

 旧大島氏所蔵の文書によると、白山社領は、上杉氏の時代に200余貫を領し、衆徒も22院を数えていたが、上杉家(景勝)が秀吉の命により会津に移封のあと、福井北の庄から春日山城に移ってきた堀秀治が全部を没収し、祭祀料として7石ばかりを与えたという。そのため、多くの寺院関係者が離散し、実相院、普門院、蜜乗院の3院2寺も廃絶したとされている。

 上杉景勝が会津に移ったのが1598年であり、堀秀治が春日山に移ってきたのがその直後のことであるから、泰平寺が大混乱に陥り、寺院が廃絶され、多くの人が泰平寺を去ったのは、ちょうど1600年を前後する頃のこととなる。

 ここで、以下の点ともかかわるので、当時の税制について簡単に書いておく。江戸時代というと<石高制>という言葉が反射的に出てくるほどによく知られているが、それ以前、つまり鎌倉時代から室町・戦国時代にかけては、<貫高制>というべき制度が支配していた。ここで、1貫は、江戸時代の10石に相当し、土地の肥沃度によってもちがうが、1000歩(坪)の田からの籾の収量に相当すると考えられる。これも大雑把な数値であるが、1石は、約150kg(籾)に等しいので、10石は1500kg(=1.5トン)に相当する。もし当時1町歩(=3600歩)の田を持つ百姓であれば、36石(60kg俵で90俵ほど)になる計算である。しかし、これはかなり高い生産性であり、実際の収量はもっと少なかったはずである。

 ともあれ、200余貫は、後の3000石にも匹敵する。ただし、これがいわば理念的な生産量であり、白山社の取得分であったわけではない。百姓から取り立てる部分(地代または租税)の割合(斗代、とだい)は、これより少なかった。当時は、百姓取分6:領主取分4とも言われるが、いまかりにこの率を採用すると、地代は1200石ほどになる。ただし、これが正確な数字というわけではない。しかし、1598年以前に白山社(そして泰平寺)の得ていた地代の正確な量を知ることはできないとしても、200貫(≒2000石)から7石への減収は、まりに急であり、大きいことは言うまでもない。

 いったいどうしてこのような事が行われたのであろうか?

 これについても、直接の事情はよく分かっているといってよく、それは上杉景勝の会津移転事情に係わっている。伝えられるところでは、景勝は、彼の家臣たち(重臣・家子・郎従)が春日山に残ることを禁止し、全員を会津に移すことを厳命する一方、百姓たちが会津に移ることは禁止した。後者の命は、新たにやってくる領主(堀秀治)が困らないようにという配慮だったという。ところが、こうした暖かい配慮に反することもやっている。それは領内の年貢米を残らずすべて会津に運んだともいう。

 そのため堀秀治が春日山城にやって来たとき、米櫃(つまり金庫)は空っぽだったとされている。そして、これは堀秀治の景勝に対する遺恨ともなったとされている。つまり、白山神社(あるいはその別当寺を有していた泰平寺)の領する土地を取りあげたのは、新領主をかかえた財政難が理由であったと考えられているようである。あるいは、もう少し穿った見方をすると、真言宗の手厚い保護者であった上杉氏に対するツラアテだったのかもしれない、と私は想像する。(念のため、それを証する史料があるわけではない。)

 

 もっと大きい問題がある。というのは、かりに事実が上のようであったとしても、新領主=堀秀治は、なぜこのような措置を実施することができたのであろうか? つまり、白山社(+泰平寺)の領する土地を春日山城主が奪い取ることはなぜ可能となったのであろうか?

 

 それには長い中世(平安時代末~戦国時代の時代)に土地所有に生じた大きい変化を見なければならないであろうが、さしあたりここでは上記の出来事が秀吉の命じた「太閤検地」(文禄の検地)の実施後に生じていることを確認しておきたい。

 この検地の歴史的な意義は、一つには、土地を正確に計測した上で、そこにおける収量を確定することにあり、しかも全国画一的な基準をもって実施したことにある。土地面積は、従来、1町=3600歩とされていたものを、1町=3000歩(1歩≒3.3平方メートル)にあらため、生産量は貫高ではなく、石高によって表すこととした。言うまでもなく、土地により地味には相違があるが、ならして銭1貫文の地=収量2石としている。この検地では、日本全体の収量が1825万石とされているが、これは人口一人あたりの籾収量が1石(約150kg)だとすると、当時の人口が1800万人だったことを示している。

 しかし、文禄検地の意味は、ただ土地面積や期待される籾収量を確定するという技術的な点にとどまっただけではない。それは、平安時代から鎌倉時代、室町時代、そして戦国時代を通じて日本の土地制度の根幹をなしてきた庄園制度にとどめを刺し、所有権の一元化を行ったことにある。すなわち、これによって、土地の所有にかかわる階層を、(1)百姓=土地の耕作権者・保有者(下級所有権者)と(2)領主(上級所有権者)とにはっきりと分けたことにある。これが庄園制を根本から否定するものであり、土地の最終的な処分権者が領主の側にあることを認めるものでもあったことは言うまでもない。この意味はまた、寺社勢力が、事実上、まだ土地を領しているとしても、土地の最終的な処分権者が領主にあったことにあったであろう。

 したがって、秀吉の命によって春日山城主となった秀吉の直臣・堀秀治が白山社(+その別当寺を擁する泰平寺)の領する土地を没収しても、新しい法に従えば違法ではなかったのである。

 堀秀治は、他方では、あらたに白山社に対して7石1斗4升3合を寄進しており、また1611年には検地奉行の大久保石見守が50石(大王村から30石、大道寺村から16石、指塩村から4石)を寄進したとされているが、これは古い荘園制度の根幹をなす寄進、つまり律令国家による課税を逃れるために公家や寺社勢力に対して行う寄進とは全く性質を異にするものである。

 

 かくして泰平寺の消失は、ある意味では荘園制の終わり、中世の終わりを告げる出来事だったのであり、その象徴的な出来事であっということができよう。

 

               中世泰平寺の跡地