能生町・泰平寺の歴史 (1) | 書と歴史のページ プラス地誌

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私の郷里の上越地方(糸魚川市、上越市など旧頸城郡)の歴史・地誌をはじめ、日本列島、世界の歴史・社会・文化・言語について気の向くままに、書き連ねます。2020年11月末、タイトル変更。

 旧能生町の海岸に近い台地上、能生川河口の左岸に大平寺という集落があることは、子供の時分から知っていたが、そこに往時かなり大規模な寺院があることは知らなかった。それを知ったのは、大学を卒業した後のことであり、そのときもそれほど興味を持ったわけではない。しかし、大規模な真言寺院がかつてそこにあったのに、その後まったく姿を消してしまったとしたら、それはどんな事情によるものだったのか、その点に関心をいだくようになったように思う。

 昔日あったという泰平寺の跡(現在の大字大平寺)の航空写真(下図)を見ると、この地は、南北1km、東西200m(平均)ほどの台地上にあり、ほぼ平坦にならされている。平坦面の面積は約20万平方メートル(20ヘクタール)ほどもある。しかし、そこに寺院の建物はまったくなく、一面の畑地にぽつんと民家が建てられているだけである。

 

 

 

 長亨2(1488)年に禅僧の万里集九という人が美濃に戻る途中能生町を通過したが、冬でもあり、雪のため親不知などの難所を通るのを断念したためか、泰平寺に一冬(約半年間)滞在したという記録(『梅花無尽蔵』)が残されている。今手元にないので、メモによると、彼は社頭を詠じ、大椿の詩を賦したという。当時、そこには七堂伽藍があり、その広大な境内には75の末社と50余坊があったという。また能生山大平寺宝光院が白山権現(白山神社)の別当寺であったともいう。白山権現は3000石を領したとも伝えられているようである。「権現」というのは、本地仏が仮の姿として神祇の神として垂迹する(現れる)という意味で、まさしく本地垂迹説を指し示す語であるが、この語は10世紀までには成立したと考えれているので、およそその頃に、白山神社が「白山権現」として祀られていたことは間違いないであろう。よく知られているように、白山神社は、一方では、延喜式の<奴奈川神社>であるとして、その論社の一つとなっており、他方では、泰澄和尚のはじめた加賀の白山信仰*との関連が指摘されている。その初期の歴史には判然としないところが多いが、これについては他日を期すことにして、ここでは、大平寺が忽然と姿を消してしまった事情を中心に調べてみたい。

 * 泰澄は、霊亀2(716)年、白山神(白山ヒメ)の夢告を受け、また養老元(717)年、白山麓の地に来宿したとき、林泉で祈念すると、ヒメが再び現れ、<自分は伊弉諾尊で、妙理大権現と号す>と語った。さらに白山頂上に登り、九頭龍王、十一面観音(白山神の本地仏)、聖観音、阿弥陀仏(大己貴命)を感得した。その後、白山で日夜苦行を積んだという。加賀の「白山之記」(1163年)には「能生之白山」が記されている。

 

 さて、明治政府が命じた「神仏分離令」のときには、すでにかつての泰平寺は姿を消していた。そのことは、明治初年に大平寺村の地には寺の建物はなく、ただ寺地の跡から経文を書いた石がいくつか発見されたと伝えられている。

 もっと確実な史料は、天和3年癸亥年(1683年)閏5月の御検地水帳にある。大平寺村の部分には、その末尾に「一屋敷 九間 七間半 二畝七歩 観音地内 但有堂建」とあるばかりで、ただ16m×14mほどの土地に観音堂を残すのみとなっていた。要するに、すでに1683年の時点で、泰平寺はすっかり姿を消していたことになる。

 念のために、能生町村と能生小泊村の部分を見ると、屋敷を列挙した部分に次のような人名の記載が見える。(間数は略す。)

 

<能生谷能生町>(面積は略す)

    屋敷   宝光院寺中  光明院

  一、屋敷   十四歩    不動境内

  一、高弐斗九升八合 真言宗 宝光院分

       此反別(面積は略す)

    境内 下畑 

    同所 上畑 

    同所 中畑 

    屋敷 

  一、高三石九斗七升壱合 真言宗 金剛院分

       此反別 (6所、内訳は略す)

  一、高四石五斗九升一号 真言宗 実相院分

       此反別 (19所、畑地は略す)

    屋敷  三畝弐拾四歩

    屋敷  弐拾四歩 実相院寺中 教賢坊

  

 <能生小泊村>    

  白山権現社人 兵部 慶長年中より除来り代々除地之内

  白山権現社人 式部

  白山権現社人 大部

    治部名子 伊右衛門

    同断   喜左衛門 後家

    同断   惣左衛門

    同断   忠左衛門

    治部名子 弥左衛門

    式部名子 弥右衛門

  白山権現社人 治部 外ニ裏壱間除之代々除地之由也

  白山権現社人 形部 川原屋敷家下計代々除地之由也

  白山権現社人 民部 右同断代々除地之由也

    民部名子 門四郎

    同断   伝七 

    形部名子 孫兵衛

    大部名子 庄兵衛

    同断   荻右衛門

    治部名子 小右衛門

    式部名子 角十郎

    同人名子 吉兵衛

 

 見られるように、白山神社の別当寺であった真言宗・宝光院が<能生谷能生町>の中に見られ、またもしかすると外の真言宗2寺院(金剛院と実相院)と一坊(教賢坊)もかつて泰平寺にあり、移転したもののようにも思われ(まだ確認したわけではない!)、もしそうだとするならば、3院+1坊だけが天和の検地の際に残っていたことになる。ちなみに、『改訂越後頸城郡誌稿』を見ても、これ以上の情報は得られない。

 また白山権現については、能生小泊村に社人6人、その名子14人、合計20人(戸)が係わっていたことがわかるが、これも殷賑をきわめた往時の状態から見れば、あきらかにかつての勢いの低下したことを示しているのであろう。

 

 ともかく、室町時代に賑わっていた泰平寺・白山神社は、江戸時代初期にはすでに衰退していたことは間違いないようであるが、それはいかなる事情によるものだったのだろうか?

 ちょうど16世紀~17世紀は、ヨーロッパでも激しい宗教的変動の生じた時代であり、最終的には国や領邦単位での戦争や、それらの国内での激しい紛争がもたらされた時代であり、わが国でもそれに類した紛争がなかったわけではない。例えば越前・加賀・越中は激しい「一向一揆」が起きた地域であり、一時期とはいえ「百姓ノモツ国」となっていたことがあった。上で触れた僧万里集九が美濃に向かったのは、まさに「加賀一向一揆」勢力とそれを鎮圧しようとする領主勢力との対決が行われている最中のことであった。

 こうした一向一揆は、越後では、越前・加賀・越中ほどの勢いを得なかったようであるが、これは親鸞聖人が直江津にあったとされる国府あたりに流刑処分になり、いわば浄土真宗の発祥の地とも見られることに照らして考えると不思議な感じもするが、一向一揆勢力が蓮如上人の強い影響下にあった土地で強い勢力となっていたことから見ると、越後までその強い影響は及ばなかったからかもしれない。むしろ、よく知られている通り、越後国では、上杉家(謙信、景勝)が真言宗に深く帰依しており、そのパトロンであったため、浄土真宗の影響が削がれていたとも考えられる。

 もしそうならば、上杉家が秀吉によって会津への転封を命じられ、越後を去った慶長3年(1599年)以降にかなり劇的な転換が生じたと推測することができる。

 ざっと見ておくと、上杉家が会津に去ったあと、慶長4、5年に上杉遺民一揆が起きている。また上杉に代わって新しい領主が春日山に入ってくるが、最初に来たのは、それまで北の庄にあった堀秀治であった。そして、その子・忠俊が福島城を築き、春日山から移転した。しかし、しばらくして堀家も転封され、家康の子の一人、松平忠輝が川中島から移り、越後領と川中島領とを合わせて統治しはじめる。高田城が築かれるのは、この忠輝の時である。忠輝は、きわめて能力のある人物であったらしいが、なぜか(切支丹に好意を持っていたとも言われ、また有能すぎたのかもしれない)父・家康から好ましく思われず、元和2年に伊勢の朝熊に流され、その後不遇な一生を送った。そして、元和5年(1619年)に松平忠昌が川中島から高田へ入封するが、この時から高田藩では、幕末まで、めまぐるしく藩主が交替することになる。先に紹介した検地が行わたのは、天和3年(1683年)であるが、この間にも、寛文5年には高田地震があり、小栗美作が復興に尽力し、さらに頸城郡の開発(開墾、水利、川・港さらい、等々の事業)に貢献したことが知られているが、延宝7年には藩主・松平家の相続争いに端を発する越後騒動が生じている。

 どこでもそうかもしれないが、なかなか大変な土地だったようである。ともかく何か大きい変化が上杉家が会津に去った後に生じたことは間違いないようである。      (続く)